静かな郊外の奥地、森に囲まれた小さな湖のほとりに年老いた男が住んでいた。
家は質素で、部屋にあるのは窓際に一人用の白いベッドと外を眺めるための揺り椅子、猫がのぼってこられるぐらいの背の低い文机。上には青白磁の小さな骨壷が置いてある。あとは最低限の水回りとコンロが一つの簡素なキッチンだけ。身の回りの世話をしてくれる家政婦が一人通うのみで、男の日々には滅多に他の人影を見ない。
かつてはどこかで社長をしていたというその年老いた男は一日の大半を椅子に腰掛け、晴れた日には水面の反射する湖を眺めながら、雨の日にはさざめくような水音を聞きながら、日記を書いて過ごした。
座っているだけの老人の日々に何をそんなに書くことがあるのかと家政婦は疑問に思っていたが、一度だけ尋ねてみると「思い出はすべて胸のうちにあるけれど、」と答えになっていない返事が返ってきた。それからはもう、男に何も尋ねていない。
男が、かつて住んでいた家を引き払ったのはもう二十年以上も前のことだ。
男の連れ合いがその家で生涯を終えたのを見送ったあと、男は誰にも言わずに静かに家を売りに出し、小さな骨壷一つを持ってふらりと居なくなった。
もっと大きな家のほうが連れ合いが喜ぶのではないかと、何度も引っ越しを検討した事がある。その度に寝室の隅に何年も置かれたくたびれた段ボール箱や、傷だらけになった浴室の扉を見ては愛しさが込み上げて引っ越せずにいた。
男の連れ合いもまたその家を愛していたので、広い住処へ行きたいとは思っていなかったし、自分で選んだ家の、自分で選んだ腕の中で天寿を全うできたことに満足し、一足先にこの世を去った。
家を売りに出した時、処分するか迷ったものがある。ベッドだ。
本当はそれぞれの寝床があったにも関わらず、結局彼らはいつもベッドの上で一緒になって眠っていた。暑い夜には手のひら一つ分だけくっついて、寒い夜には丸ごと暖めてあげるように。
そうして互いの温度を分け合いながら長い間夜を包んでくれたベッドの上で、これからは一人で眠るのだということに男は耐えられそうになかった。しかし、処分してしまえばもう二度とあの子は腹の上には帰ってこない。残しておいても、帰ってこない。
男は他の家財の何もかもを誰にも託さずに自分の手で処分したが、ベッドだけは友人に頭を下げ、自分ではどうにもできないので、目の届かないところで処分してくれと頼んだ。
あの幸福な夜の自分達には終わりの時がきたのだと、誰かの手で思い知らせて欲しい。自分もあの子と一緒に眠りにつきたい。
男と付き合いの長い、少し年下の友人はベッドを預かると、数日後に小さな小瓶に入った灰を男に差し出した。「これが先輩達の遺灰です」貴方達の夜は丁寧に弔われたのだから、夜明けは必ず来ますよ。
そう渡されたベッドの燃殻は、連れ合いの骨壷と一緒にして大事に持っている。いつも隣で眠ってあげられるように。
こうして何もなくなった家は、すぐに見知らぬ誰かの住居へと変わっていった。
日記はそれから書いている。
思えば、連れ合いがいたのは男の人生のうちのたったの十数年だ。その十数年に、男のよすががある。
思い出はすべて胸のうちにあれど、いざ一人になるとあの日々が歳月と共に遠くなっていくことが寂しく感じられたので、一日を過ごすごとに一つずつ思い出を遡って連れ合いとの日々を書き記した。
純白の水彩紙にうっすらと星のように銀箔が織り込まれた、正方形の白紙帳。
まっさらな道に自分達の足跡をつけるようだと気に入って、男は連れ合いとの日々を記す先としてそれを選んだ。
『十月八日、朝ゴミ捨てに行こうと外に出ると家の前で何か黒いものが落ちていた。
よく見るとそれは猫だった。近づいても動く気配はなく、死んでいるのかとも思ったがじっと観察すると小さく息をしている気がする。眠っているというよりは弱っているように見えた。』
『もし残念ながら死んでしまうのだとしても、道端のボロ雑巾のような姿ではなく、最期のその時は自分がそばにいてあげようと思った。』
『奇しくも今日は誕生日だった。
今日この子がうちに来たのは何かの縁なのかもしれない。』
老いた今となっては感嘆も、悲嘆も、歓喜も憤怒も、大抵のことでは心は揺れ動かずに、ただ凪いだ海のように穏やかで平坦な湖を眺める毎日であったが、一方で男と連れ合いの思い出は、褪せることなく色鮮やかに頁をすすめ綴られていく。
その軌跡は連れ合いが旅立った日のことまで辿られると、最後に「君に会いたい」という言葉と、小さな涙の痕を結びにして締めくくられた。
男は、そうして書き上がった日記を大切に胸の内に抱えると、「 」と呼んで眩しそうに目を眇めた。
もうずっと眠れずにいた夜が明けようとしていた。
窓際で揺り椅子の背もたれに身を預け、男は腕に抱えたふたり分の軌跡の重みを確かめるように本の背を撫でた。
すぐ側にひどく懐かしい気配がする。窓の隅から少しずつ差し込んでくる朝日のように、男に近づいているようだった。
男は長いこと忘れていたように、ゆっくりと息を吸いこんだ。
いつの間にか落ちていた瞼の向こうで、あの愛しい黒猫が腹の上にのぼってきてナァと一声鳴く。ああ、迎えに来てくれたの、と男が返事をする。吐息のように名前を呼んだ。男の呼吸はもう、聞こえない。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
0コメント