この家に新しい家族が増えたのは、もう十数年以上も前のことです。
私は、この家の主がまだひとりでこの家に住んでいた頃に迎え入れられたクチナシの木です。
どうやらそこには先代のセンリョウの木があったようですが、寿命を迎えてぽっかりと空いてしまった土壌に、新しく植えてもらったのでした。
家の中がよく見える大きな窓の真ん前が、私の住処。他にも様々な木や草花が並ぶ、家主の人柄がよく分かる優しい庭です。それからずっと、この庭で毎年毎年少しずつ大きく育ちながら、あの人と、新しくやってきたあの子を見続けています。
毎朝窓を隠していたカーテンが開かれるとあの人は必ず庭に出て、丁寧に私達の様子を見てくれます。こんなに優しい人なのにひとりだなんて、どうしてか世の中の人間は見る目がないものだと、小さな苗木だった私は疑問に思っていたものです。
時々彼は私達の葉を確認したり土を混ぜたりしながら話しかけてくれますが、そんな時は決まって少し寂しそうな目をしていました。けれど私達の誰も、その寂しさを埋めてあげることはできません。庭の花々は競って彼のために美しい花を咲かせようと――――もちろん私も――――懸命に賑やかしましたが、どうしてか静かにひとり暮らすこの人には何かが欠けているのでした。誰かこの人の、深い孤独を見つめ返してくれたらいいのに。
そこに、ある時から黒猫がやってきたのでした。
あの人は、ちょうど家の前で倒れていた黒猫を拾い上げて連れ帰ると甲斐甲斐しく世話をし始めました。
はじめのうちは、庭の私達だけがいつもあの人に可愛がってもらっていたのに、と草花達は嫉妬に騒いだりもしていましたが、黒猫はすぐに私達の人気者になりました。だってとっても可愛いのだもの! あの子は小さな赤ちゃんでしたが、猫という生き物はすぐに大きくなります。
彼らが喧嘩をしたり、仲良くなったり、うまくいかないことも些細な毎日の幸せも全部見届けて、私もあの子もおとなになったのです。
あの子はよく日の当たる窓際で寝そべりながら庭を見ていました。
全身真っ黒な毛に覆われているのに、きらきらと煌めく瞳がとても輝いて見える美しい子です。庭にやってくる野良猫や鳥達に媚びたりはせず、私達が荒らされそうになると窓ごしに威嚇して追い払ってくれたり、あの人を呼びにいってくれるたくましい子でした。かと思えば私が面白がってはらはらと揺らした花びらを一生懸命目で追いかけて、ガラス板に顔をぶつける可愛らしい一面も持ち合わせているのです。
昼寝をするあの子の隣にあの人が座って、色とりどりの私達を眺めながらスケッチをしている時間が、いっとう好きでした。そういう時のあの人の瞳には、いつしかの孤独はいなくなっていて、代わりにこぼれ落ちそうなぐらいの慈しみで溢れているから。――そう、あの人は美しく咲いた私達じゃなくて、あの子のことばかり絵描いていた。
またある時には、ソファに座ってうたた寝してしまったあの人の横に、いつのまにか音もなくやってきた黒猫が当たり前のように腰をおろしました。ちょうどあの人の膝の上は夕日が当たってとても気持ちがよさそうだったのですが、自分が乗ったら起こしてしまうと思ったのでしょう、あの子は遠慮がちに小さな顔だけをちょん、とあの人の膝の上に乗せて、静かに目を閉じました。窓から差し込む橙色の夕暮れの濃さが、暖かな眼差しのようにふたつの寝息を見守っています。
しばらくしてあの人が起き出しそうな声を出したら黒猫はそそくさとどこかへ行ってしまったので、こんな優しい添い寝は外から見ていた私しか知らないことなのですけれど。
そんな風に、この家には一人と一匹が一緒に暮らしていたのです。
彼らの幸福を庭から窓越しに眺めるのは、まるで穏やかな映画でも見ているようでした。
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この年は、ここ数年で一番の盛りでした。
私の眩い白磁のような花弁はどれもこれもめいっぱいに開き、自慢の甘やかな香りが庭を満たします。クチナシは七香の一つに数えられるぐらい、香り高い花なのです。毎年あの人は丁寧に剪定してくれるので、それに恥じない花を咲かせてきました。
けれど今年は、――今日はその中でも特別に輝くような純白と芳香を放っていました。まだ日の昇りきらない暗い時分なのに、私の姿は太陽の光を受けたようにまばゆく白を振りまいています。
私は、私の長い樹木の時間の中で今日が一番美しい日になるようにしようと意気込みました。もう少し明るくなったら、あの人が窓ごしに咲き誇る私を見て、びっくりするんじゃないかと期待して。
部屋の奥から、黒猫がゆっくりと窓のほうに歩いてくるのが見えます。
記憶にあるよりも痩せたような気がするし、昔のように軽やかな足取りではないけれど、もうここのところずっと窓辺に姿を見せていなかったので嬉しくて私は花弁の一つをひらひらと振りました。あなたもきっと私の香りに誘われてきたのね。
ほんの小さなこどもだったあの子はもうすっかり年をとっていました。
毎日愛しの寝床で微睡むような日々を過ごしているのでしょう。私が見てきた猫というものたちは、年をとるとみんなそうしてお気に入りの場所で日がな一日眠っていましたから。
あの子の瞳は薄白く靄がかったようになっていて、あまりよく見えていないのかもしれません。スン、と鼻をならすような仕草で一声鳴いたかと思うと、今度はあの人が奥からぱたぱたと姿を現して黒猫に促されるように窓辺に座りました。
みろよ、庭の花がさいてるぞ、とあの人のことを呼んでくれたのでしょうか。
けれどあの人が庭に出てくることはありませんでした。
黒猫があの人の膝の上に陣取ったからです。
――――――――ああ、あなた、そこに決めたのね。
あの人は、膝の上で満足そうに丸くなったあの子を優しく撫でます。
私も、届きはしないけれども同じようにそうしてあげたいと思ったので、真っ白な花びらをはらりはらりと窓辺に届けました。一枚でもあのふたりのところに降り注ぎますように。
そうして、日がだんだんと高くなっていつの間にかてっぺんを通り過ぎ、暑さで私の香りが一段と強くなっても、ふたりはその場所から動くことはありませんでした。
あの人はいつまでもいつまでも、膝の上の小さなあの子を優しく撫で続けていました。
私を燦々と照らしていた太陽がすっかり重そうに沈んできて橙色の夕日に変わった頃、
あの人の優しい手は少しずつ動きを遅くして、
微塵も動かなくなったあの子の体を、うずくまるようにして抱きしめたまま、
やがて訪れた夜の優しい帳に隠されていったのでした。
それが、私がこの家の大きな窓で見た最後の、ふたりの幸せな物語です。
クチナシの花言葉:「私は幸せです」
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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