以前ポイピクで公開していた転生パロディ小話のオムニバスです。
4だけ1人と1匹のお話だったため非公開にしていました。
様々な魂のかたちの藍渙×江澄の小話。前世の記憶はあったりなかったり。
HEA(ハッピー・エヴァー・アフター=「いつまでも幸せに暮らしましためでたしめでたし」で終わる物語)ばかりではありません。1~3は後味が悪いのでご注意ください。
()内は前世の記憶の有無
1.少女達(あり×あり)
2.虎と鹿(?×?)
3.男と青年(あり×なし)
4.一人と一匹(なし×なし)
5.藍渙と江澄
1.少女達(あり×あり)
真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪が美しい少女が、自分が漠然と同じような夢を繰り返し見ていると気がついたのは物心つく年頃のことだ。
少女は、古くから代々続く高名な寺の長女として生まれた。
土地だけは広く高齢者の多い典型的な田舎町にある、由緒正しい寺だ。現代にはそぐわない数多くの旧家のしきたりに少女は幼いながらも従い、妹が生まれるとよく面倒を見て姉妹は健やかに育った。
少女はいつもいつも同じ決まりの夢を見ていた。
格式高い世家を束ねる叔父と、その家の跡取りである男の自分と、同じ顔の弟がでてくる。幼い頃にはその内容も意味も分かっていなかったが、ある時目が覚めてから、厳格な叔母や妹の顔を見て、ああそういうルールか、と悟った。
少女の家族は、夢と同じ顔ぶれだった。夢の中では違っているのは性別だけ。
夢が一体なんなのかは分からなかった。毎日見るわけでもなく、話に脈絡もない。古装に身を包み、訳の分からない術を使って魔物と戦う、娯楽映画のような情景が多い。断片的に同じ登場人物たちの日々が見える。
どうやらそちらでの自分の名は〝 〟というらしい。
その薄膜の向こう側を見るかのような世界の中で、目が離せない人がいる。
〝阿澄〟。黒髪を編み込んで頭の後ろでまとめた男を、夢の中の自分はそう呼んでいた。美しいが人を寄せつけず、氷の美貌といった印象であったが、どうしてか自分に対してだけはどこか柔らかく笑ってくれる人だ。
――〝阿澄〟、その人もきっとこちらの世界のどこかにいる。探さなければ。そう少女が明確に思い始めた十歳の頃にはまだ、少女の周りにはそれらしき人間はいなかった。
少女の生まれた時代には、夢でみるような戦いや奇妙な魔法めいたものはない。およそ平和な田舎の町で、学校に通い授業が終わればまっすぐに帰宅して、寺の参拝に訪れた者達への応対を手伝う。寺を訪れる者達は口々に「この家の姉妹を利発で器量が良い」と褒め称え、どんな男でも婿養子に来てここは安泰だろうと、田舎特有の巷談に花を咲かせた。どこの家の誰に恋人ができただの、あそこの家の子は行き遅れだの、そういった噂話しか娯楽のない、つまらぬ田舎だったのだ。
子供のうちは自由に振る舞うことはできず、夢だなんだと突拍子もない話をするわけにもいかなかったので、少女は大人しく言われるがままに日々を過ごした。いつかあの夢の〝阿澄〟を探しにいかなければと、漠然とした焦燥感を抱えながら。
夢の世界と現実世界の二つの人生を掛け持ちながら少女は育った。
もはや単なる夢ではなく、自分の分身か前世なのだと思えるほど身近にある。叔母や妹は何も分からないようだった。自分だけが知っている不思議な登場人物達。
世間ではそれをイマジナリーフレンドと呼ぶのかもしれない。児童期にだけ見られる空想上の存在。名を持ち、児に肯定的で、視覚聴覚的なイメージ実感をもって少女の世界に息づく。自分だけの秘密の世界。実在しないともだち。
自分にはきっと、運命の〝阿澄〟がどこかにいる。
+
少女の黒髪が腰ほどまで伸び、もうあと一年で女学校も卒業かという十七の春、それは突然現れた。探しになど行かずとも運命のほうから、実体となって舞い込んできたのだ。
春風が柔らかく吹き抜ける気持ちのいい入学式の日だった。
少女が生徒会長として朝礼台の上で完璧な祝辞を述べる。ずらりと並んだ新入生を何気なく見渡した時に、先頭から数人目の、眦のつり上がった大きな瞳にまだ幼さのにじむ女子と目が合った。
――――あれは。
ひと目みただけで、自分の奥深くで眠っていたものがぞわりと起こされたような気持ちだった。綺麗な黒髪の一部がみつ編みにされ後頭部で結ばれている。夢の中の男よりは背はだいぶ小さかったが、気の強そうな眼差しとすっと通った鼻梁はよく似ている。
あれは間違いなく〝阿澄〟だ。
少女はすぐさまその新入生に接触を試みた。
新入生の名前は聞いたことのない名だったが、自分もまた夢の中の名前とは違うのだから当然だったし、少女はその新入生のことを心の中で〝阿澄〟と呼び続けた。
〝阿澄〟はこの春に越してきたばかりだという。
「わたし達、どこかで会ったことがないかな」
気が急いてそんな不審な挨拶をした少女の期待を、〝阿澄〟は身構えるように自身の右の人差し指を握りながら「いいえ」と一言で終わらせた。突然話しかけてきた見知らぬ上級生に、警戒心を隠しもしない。注意深く探ってみると、〝阿澄〟の家族は、夢の中に出てくる者たちとは何の関係もないようだった。あちらの彼には姉と義兄がいたが、この新入生は仲睦まじい夫婦に生まれた一人娘らしい。
それでも少女には運命への確信があった。彼女が握った右の人差し指。前世の世界で、そこには紫色の指輪がいつも嵌っているからだ。
〝阿澄〟も自分と同じように奇妙な夢を見ているかもしれないという期待は失われたが、例え彼女が自分のことを覚えていなくても構わなかった。
こうして自然と出会ったのだから、きっと自分達は引き合う運命なのだろう。
〝阿澄〟を見つけて一ヶ月ほどたった新緑の五月、少女はしばらく手入れのされていない校舎の裏庭にいた。
最近、立入禁止のはずのそこからすすり泣くような声がすると生徒達が噂するので、昼休みに様子を見にきたのだ。裏庭には古い用具庫があり、もう長いこと使われずに廃屋のようになっている。危ないので裏庭には入れないよう背の低いフェンスが設置されているが、こちらも古くあまり用をなしていないので簡単に侵入できる。そして度々、クラスの喧騒から逃げ出したくなった生徒が入り込むのだ。
学校に馴染めず泣いている子が居るのかもしれない、と少女は教師に許可をとり、錆びて鍵のかからないフェンスを開けた。裏庭に立ち入ると、好き放題に膝丈ほどまで伸びた雑草が茫々と少女を出迎える。
そんな草むらに一筋、何かが踏み通ったような跡があった。何度か同じところを通らないとできないようなものだ。
これは本当に誰かいるな、と音を立てて驚かさないよう慎重に同じ道を踏みしめて行くと、ヒンヒンと何か甲高くこすれるような声が聞こえてきた。草道の先、少しひらけたところに用具庫は佇んでいる。前まで行くと木造の扉が開けっ放しになっていた。中を伺うように覗き込むと、制服を着た何者かがしゃがみ込んでいる。
「…!」
編み込まれた黒髪と後ろ姿を見て、少女は思わず力を込めてパキ、と足元の枝を踏んでしまった。――〝阿澄〟だ。
枝の音にすぐさま振り返った〝阿澄〟は「誰だ!」と鋭い眼差しを向けたが、そこに居たのが生徒会長だと分かると、自分を取り締まりにきたのだと理解したのか、ばつの悪そうな顔でぐっと押し黙った。
「ここに誰かいるようだ聞いて来たのだけれど…何かあったのかな」
少女は極力〝阿澄〟を警戒させないよう穏やかに話しかけながら、後輩を観察した。泣いている様子はない。彼女はしゃがんだまま片手に弁当箱を持ち、些か不自然に体を傾けている。まだ真新しいスカートが地面についてしまっているではないか。
一瞬気まずい空気が流れ、少女が一歩近づこうとした時、〝阿澄〟の後ろから白い毛玉が甲高い鳴き声と共にころころと姿を現した。
「………仔犬?」
「あっ馬鹿!」
慌てた〝阿澄〟が毛玉を隠そうと手を伸ばすが、そんなことはお構いなしに小さな白い仔犬が二匹、制服の陰から転がり出てきた。一匹は〝阿澄〟の足元へ、もう一匹は侵入者たる少女のほうへよちよちと近寄ってくる。ふわふわとした毛が揃い始めているので生後一ヶ月はたっているだろう。少女は自分のほうにやってきた一匹の口元に米粒がついているのを見つけ、もう一度〝阿澄〟のほうを見た。状況を推察するに、彼女が裏庭で野良犬に餌付けをしていたというところか。
そういえば、夢の中の〝阿澄〟は犬好きだった。そんなところも同じなのか。あの前世らしき自分達と、今の自分達はどのぐらい共通しているのだろうと少女は思案する。
「い、犬のことは先生には」
強張った表情で〝阿澄〟が口を開いた。
自分はともかく犬のことは言わないで。そう目が訴えている。少女が仔犬の米粒をとってやろうと手を伸ばすと、仔犬はびくりと離れて〝阿澄〟のもとへと逃げ帰っていく。この懐きようは昨日今日の餌付けではなさそうだ。
「いつからここに?」
「…一週間ぐらい前に、気付いて…。母犬も一緒にいたけど弱っていて、次の日に死んでいました」
「そう…」
「それでそこに」
そこ、と〝阿澄〟が指差した先は他の場所よりほんの少し土が盛り上がっている。何がそこなのか一瞬分からずにぽかんとしてから、盛られた土の上に不自然に萎れた草花が添えられているのを見て、「そこ」に埋めたのだと少女は気付いた。
餌付けしているだけでなく、裏庭を掘り返して野良犬の死体を埋めていたとは思わず、〝阿澄〟の顔をもう一度見る。ばつの悪そうな顔が俯いた。目線の先では二匹の仔犬がじゃれあっている。
それにしても一週間、自分の昼食を仔犬に与え続けていたのだろうか。〝阿澄〟のほっそりと骨の浮いた手首が目について眉をひそめると、沈黙を勘違いしたのか「ちゃんと里親を探すからしばらく見逃してくれませんか」と縋るように〝阿澄〟が訴える。彼女の家では飼えないらしい。
犬はともかくあなたのことが心配だ、と喉まで出かかったが、仔犬を想う〝阿澄〟の気持ちの前では、ともかくなどと言えず少女は押し黙った。〝阿澄〟のお願いなら何でも叶えてあげたい。けれど食事を与えてしまうのはいただけない。
「…明日のお昼、またここにいらっしゃい」
「え?」
誰にも見つからないようにね、と付け加えると少女は〝阿澄〟の答えは聞かずに、足早にその場をあとにした。
元きた道を戻って教員室へ向かう。裏庭には特に異常は何も無かったと教師に報告しつつ、危ないので立入禁止の札を新しくしておきますね、と少女は完璧な生徒会長の顔で言ってのけた。生徒会の名も記して貼っておけば、当面誰も近づかないだろう。
思わぬところで〝阿澄〟と繋がりを持てた。少女は膝下丈のスカートの裾を翻しながら密かに心を踊らせた。
+
翌日、少女が小さな包みを二つ抱えて裏庭の奥へと行くと、〝阿澄〟は落ち着かない様子ながら言われたとおりに用具庫の前に立っていた。
仔犬達はもう彼女の昼食を分け与えられたあとなのか、腹を出して転がったり〝阿澄〟の足元にじゃれついたりと思い思いに遊んでいる。少女の姿を見つけると〝阿澄〟は本当にきた、というような顔をした。彼女はすぐに顔に出るので分かりやすい。
「来ないかもと思ってた」
「犬が飢えたら可哀想なので…」
「ふふ、そうだね。…そっちに座りましょう」
用具庫の隅に使われなくなった古いマットが積まれている。どれも土埃にまみれていたが、地面に座るよりははるかにマシだろうと少女はマットの一つを指差す。
いよいよ何が起こるのかと不審そうな表情で〝阿澄〟はおずおずとそこに腰掛けた。仔犬達もじゃれあいながらついてくる。
そのすぐ隣に少女も座り、持ってきた包みの一つを〝阿澄〟に渡す。藤色の布にくるまれた弁当箱だ。〝阿澄〟は訳が分からないとばかりに受け取らないので強引に膝の上に置くと、彼女は弁当箱が転がり落ちないよう慌てて両手で受け止めた。
「今日も、あなたのお弁当はあの仔犬達に?」
〝阿澄〟は怒られると思ったのか、びくりと肩を揺らした。それ、あけて、と優しく声をかけると、戸惑いがちに〝阿澄〟の指は渡された包みをほどいていく。
「…先生に捕まる前に、犬達にできるだけたくさん食べさせてやろうと、思って」
タイミングよく彼女の腹がぐう、と小さな音を立てた。
ぱっと恥ずかしそうに俯く〝阿澄〟を見ながら少女は内心小躍りでもしたい気持ちだった。よかった、ここで腹を鳴らす〝阿澄〟を見つけたのが自分で。世話好きのクラスメイトや教師などに見つけられていたら、今頃彼女の隣に座っていたのは違う誰かだったかもしれない。
それはあなたの分だから、食べて。
そう言って少女は自分の弁当箱をあけ、身に染み付いた習慣で食前の文言を手短に呟くと箸を手にした。え、としばらく〝阿澄〟は混乱したように手を彷徨わせていたが、少女が黙々と食べ始めたので観念したのか軽く会釈し、同じように蓋をあける。
中身を見て露骨にかたまった〝阿澄〟をみて、予想した通りだと少女はくつくつと笑った。寺の料理なので、葉物と根菜に火を通したような地味な惣菜しか作れないのだ。
朝、少女は二人分の弁当を作りながら、きっと〝阿澄〟のげんなりした表情が見られるだろうなと想像していた。
同じ顔を見たことがあるのだ、夢の中で。草木を煮詰めたような食事しか出ない前世の自分の家で、男の〝阿澄〟は実に嫌そうにいつまでも減らない皿の料理をつついていた。逆のこともあった。〝阿澄〟の家で大皿に盛られた肉や魚、卵料理の数々に目を回しそうになっている自分を見たこともある。どちらの光景を見るのも少女は好きだった。生きていくための糧を、二人で分け合っていく関係はなんて素晴らしいのだろう。
「一応、あなたの分は芋や豆なんかを多くしたのだけど」
「あ、いや、その……自分の食事はお構いなく……」
「いいえ。あなたもちゃんと昼食をとることが、仔犬のことを黙っている条件」
そう言うと〝阿澄〟は露骨に嫌そうな顔をして少女のほうを見た。そして今度は足元できゅうきゅうと鼻を鳴らす仔犬達と見つめあい、ぐっと何かをこらえるように「……はい」としぶしぶ答えた。
羅漢菜という寺特有の野菜の煮物は、人参や椎茸、くわいなどに、揚げ豆腐や落花生が入り味付けもごま油や醤油などを使うので比較的食べやすい。ヤマブシタケを一晩出汁に漬けて戻すと食感が肉に近くなるらしい。蒟蒻を冷凍したものはイカに似るというので試してみた。もっともイカを食べたことがないので、どのぐらい本物に近いのかは分からなかったが。
他にもあれこれと調べて、少しでも〝阿澄〟が菜食を食べやすいようにと考えてみたが、一晩では作りきれなかったので反応をみながら研究しようと、少女の机の中のノートには調理法に関するメモ書きが行儀よく並んでいる。
工夫を凝らしたおかげか〝阿澄〟の箸の進みは思ったよりも良かった。
前世の自分にも教えてあげたいぐらいだ、貴方はもう少し〝阿澄〟のためにお料理を学ぶべきだと。
〝阿澄〟が食べている間、少女は自身も食事を口に運びながら一言も発さずそっと隣の様子を伺い見ていた。自分の作ったものが彼女の肉となり、いつか柔らかな曲線を描くようになるのかと思うと奇妙な興奮を覚える。明日もきっと作ってこよう。そら豆とたらの芽を塩で炒めたものは好きだろうか。
食事をしている様を見られていることに気付いたのか〝阿澄〟は目を泳がせながら「…素朴な味わいですね」と唸るように言った。味が薄いということか、そういえば夢でみた〝阿澄〟の好物には唐辛子が見えたかもしれない。
「明日は自分で好きな調味料を持ってくるといいよ」
あなたが食べてくれるのならなんでもいいので。
少女がそう答えると、〝阿澄〟は明日、と呟いた。
「明日も、明後日も、あなたがちゃんと自分の食事をとるようになるまで毎日作ってきて食べさせるよ」
「…早く犬達の里親を見つけます」
〝阿澄〟は食べ終わると、ありがとうございますと丁寧に礼を述べた。
それから犬のこと、〝阿澄〟のこと、少女のことなどをぽつぽつと話しているうちに昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえてきたので、二人は慌てて立ち上がったのだった。
二人が秘密の裏庭へ通うようになって二週間ほどがたった。
毎日昼休みになるとどこかへ居なくなる少女のことをクラスメイト達は訝しんだが、教師の手伝いでしばらく昼は居ないと適当に誤魔化してやり過ごしている。
弁当のレパートリーも〝阿澄〟に出会う前と比べると随分と変わった。それまでずっと、毎日同じような素材と味付けでも特に気になったことはなかったのだ。それが今では手を変え品を変え、繊維が口に残らない舌触りや、素材の組み合わせで食感を考えたりなど少しでも〝阿澄〟が喜んでくれるようにと心を砕いている。
〝阿澄〟は結局一度も調味料を持参していない。毎日弁当箱を開けるとじっと中身を見て、少女が作ったままのものを口にする。そして必ず完食した。それがより一層嬉しくて、これは好きそうだから多くいれてあげよう、これは昨日箸のすすみが遅かったようだからもう少し変えてみよう、料理とはこんなに楽しいものだったかと毎朝生き生きと台所に立つ少女を、叔母と妹は不思議そうに見ていた。
今日はどんな風に食べてくれるのだろうと、毎日胸が躍る。
その日は空気がじっとりと重く、今にも降り出しそうな厚い雲に覆われた日だった。
少女が昼に裏庭へと足を踏み入れる頃には、ぽつぽつと水滴が顔に当たりいよいよ降り始めたので、折りたたみ傘を持ってきてよかったと用具庫に駆け込みながら一息つく。〝阿澄〟はまだいない。今日は山菜と湯葉の巻揚げに少し自信があるのだ。早く食べさせたい。
転がりまわる仔犬達の相手をしながら外を眺める。またたく間に雨音は大きくなり糸のように細い水が用具庫の開け放しの扉から入り込んできた。仔犬達を濡れないように奥へやっていると、ばたばたと足音をさせて髪から水を滴らせた〝阿澄〟が飛び込んでくる。
「はっ…はっ…急に降ってきた」
ずぶ濡れの〝阿澄〟に慌てて少女は駆け寄り、ポケットから薄水色の無地のハンカチを取り出して拭いてやる。だいぶ走ってきたのか〝阿澄〟の上気した頬は生温い。彼女の黒髪は顔の輪郭に沿って引っつき水滴を零している。
真っ白のスクールブラウスが濡れて〝阿澄〟の肌にぴったりと張りついているのに目がとまった。薄い体だ。
紫色のブラストラップがステッチごと浮き彫りになっている。少女の指は吸い寄せられるように、その弧を描いた紫のなめらかな線をつう、となぞった。
「っ!」
「あっ…ごめんなさい、その、濡れて気持ち悪いでしょうと…」
「ほ、放っておけば乾くから、大丈夫、です」
血迷った自分の指先を誤魔化すように、少女はハンカチで〝阿澄〟の首元を拭うが、濡れそぼった白いブラウスシャツからは目が離せない。陰の落ちた鎖骨の窪みも、胸元のささやかなふくらみも、その下のくびれた細い腰も何もかも、〝阿澄〟の輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
もう大丈夫なんで、としきりに繰り返す〝阿澄〟の声でようやく我に返る。少女は自身の薄手の白いカーディガンを脱ぐと、遠慮する〝阿澄〟に無理やり羽織らせた。
「あなたがこれを着ていてくれないと、犬のことを先生に話してしまうかも」
「あっそうだ、犬! 犬の里親が見つかって!」
弾かれたように〝阿澄〟が少女のほうに身を乗り出す。肩から落ちそうになったカーディガンをもう一度掛け直しつつ、〝阿澄〟を奥の濡れていないマットの上に座らせた。
「父の取引先の人が引き取ってくれると言っていて」
「………そう」
「今日の放課後にでも迎えに来てくれると」
「えっ…それは随分と急な話だね」
あまりにも展開の早い話だったので、自信作の弁当箱を渡すのも忘れて少女は〝阿澄〟の顔を見た。犬が引き取られるということは、もうここに来る理由はなくなるということだ。明日からはもう〝阿澄〟は自身の教室で、自分の弁当をつつくことになる。
動揺する少女のかたわらで、〝阿澄〟は仔犬達に寂しそうな目を向けていた。その視線のほんの少しでも自分に向けてはくれないかと思ったが、少女は黙って〝阿澄〟と仔犬達の最後の触れ合いを見守る。
自分のほうへと近寄ってきた仔犬をあやしながら、〝阿澄〟は犬達に名前をつけなくてよかった、と言った。
「名前をつけたら愛着が湧いて辛くなるので」
「そう…そうだね」
その通りだ。自分もこの後輩を〝阿澄〟と勝手に名付けて呼んでいるから、唐突に終わってしまった昼の逢瀬が寂しいのだろう。相手は何も覚えていない、一方通行の運命だということを、この数週間が楽しくてすっかり忘れていた。
〝阿澄〟が仔犬達に食事を与えている間、少女は自分のカーディガンで覆われた彼女の白い背中を見つめていた。
先程は相当降られたようだったので、あの紫色の下着もたっぷりと雨を含んで濡れているのだろう。あんな薄い体では風邪を引いてしまいそうだ。五月とはいえ濡れた肌はすぐに冷えるに違いない。自分のカーディガンがどれほど彼女を守ってくれるだろうか。
犬達を引き取ってくれるという人は、〝阿澄〟の父と仕事の関係で懇意にしている方なのだという。男性かと聞くと、引き取ってくれると決めたのは老年一歩手前ぐらいの男性だそうだが、引き取りにくるのはその息子らしい。
見知らぬ男達に二人の秘密の裏庭を暴かれたような気持ちで、少女は「カーディガンはあげるから放課後も必ず着ているように」と〝阿澄〟に少し強めに告げた。〝阿澄〟は怪訝な顔をしながらも、少女の時々強引な部分を分かってきたのか何も言わずに「…はい」と返事する。
犬達の食事が終わると、二人は並んで自分達の昼食をとりはじめた。先程の変な空気のせいか、言葉は少ない。巻揚げの感想を聞くことはできなかったが、今日も〝阿澄〟の弁当箱はゆっくりと、空になっていく。
最後のひとときを、こんな風にしたくはなかったと少女はひっそりと嘆いた。もっと食べさせたいものもあったのに。どれか一つでも気に入ってくれたものはあったのか、明日からは彼女はどんなものを口にするのか。生徒会長という目立つ立場では、理由もなく新入生の教室には行きづらい。学年の違いがもどかしい。
せめて少しでも長くここに居られるよう少女はいつもよりも時間をかけて咀嚼したが、そんな努力も虚しく、今日も昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。仕方なく食べかけの弁当箱の蓋を閉じると、先に弁当袋を包み終えた〝阿澄〟が用具庫の扉のほうへとさっさと歩き出している。
「あ、待って」
慌てて〝阿澄〟の背中へと声をかける。
「犬達のこと、今日まで黙っててくれてありがとうございました」
「っ」
「…。…あ、明日は……そら豆と何かの山菜…の炒めたやつが、また食べたい…」
今日でおしまいとばかりに告げられた言葉のあとで、消え入りそうに続いた〝阿澄〟の言葉に、え、と少女が思わず素っ頓狂な声を出す。
背中を向けて立ち止まっている〝阿澄〟はぐ、と体を固くした。よく見ると白いカーディガンの裾を握りしめている。
言葉の意味を理解して、少女は勿論、明日必ず作ってくるからと早口で興奮したように答えた。それを聞くと〝阿澄〟は少女のほうは見ないままいつかのように軽く会釈して、一足先に校舎の方へと小走りで去って行く。
いつの間にか雨はあがり、分厚い雲の間からは陽の光がうっすらと差し込んでいた。
+
その晩、少女はいつもの夢――前世のような何かを見ていた。
白い天幕の陰に、男が二人いる。夢の中での自分と〝阿澄〟だ。
二人は何も会話をしていないのか、話し声は聞こえない。寝台に横になって片方が揺れるように動いている。布が擦れる音しか分からず少女は意識をじっと集中させてその様子を伺う。 夢の中特有の、自由に動けない感覚に囚われながら、しばらくそうして二人の男に注視しているうちに、動いているのが自分で、その下にうつ伏せで組み敷かれているのが〝阿澄〟だと気付いたとき、少女はひゅっと息を呑んだ。――――――まぐわっている。
知識として、そうやって子を成すことは知っているが、実体験どころか絵や文字でも見たことはない。そもそも男同士では子は成せないのに。
「あっ…んあっ、うぐ、」
〝阿澄〟から苦しげな喘ぎ声が洩れた。
あんな、あんな獣のように犯すなんて。
少女は見つからないよう浅い呼吸を小さく繰り返し、早鐘のように打つ鼓動を落ち着かせようとするが、そんな彼女に反して〝阿澄〟に跨った男は真っ直ぐな黒髪を揺らしながら動きを早めていく。
「ああっ…! ら、ん…ほぁ…あっ、もう…っ」
〝阿澄〟がまた声を上げる。許しを乞うようなその声色に、少女はもうやめて欲しいと願いながらも目を離せずにいる。
男は荒い息づかいの合間に何かを〝阿澄〟に言う。そして〝阿澄〟の細い腰を掴んでいた手を片方離すと、ふ、とわずかに口元を緩めながら肩から肩甲骨にかけてつうと撫でたのだ。
それは今日、少女が思わずなぞった紫色のブラストラップの軌跡と同じ形をしていた。
(――っ!)
もう耐えられないと少女は固く目をつぶり、早くこの夢が覚めるよう祈った。
〝阿澄〟があんなにも苦しそうなのに、腰を振る男ときたら――上に跨った自分が、己の欲望に浮かされて獣のように〝阿澄〟を貪っているなんて。
〝阿澄〟がびくりと背中をしならせて果てる声が、少女の耳に届く。
はぁはぁと自分の荒い呼吸で少女は目を覚ました。
部屋の中は真っ暗だ。まだ到底朝の気配は遠い。寝汗がひどいせいか下着までぐっしょりと濡れている。何という悪夢。
自分は〝阿澄〟をあんな風に汚したりはしない。女に生まれて良かった、と不思議な安堵を覚える。あの誰にも踏みつけられたことのない野花のような彼女に、あんな野蛮な扱い方をしてなるものか。
少女は布団から這い出すと、棚から新しく替えの下着と寝衣を取り出して着替え始めた。さらりと乾いた生地の感触にほっと息をつく。
そうして己の体から離れていったぐちゃぐちゃに濡れた服をまとめると、目をそらしながら適当な紙袋に入れ、音をたてないようにそっとゴミ箱の奥へとしまい込んだ。
+
翌日から犬の居ない、〝阿澄〟と二人きりの昼を共有する日々を過ごすうちに、少女はすっかり悪夢のことなど忘れた。
次第に〝阿澄〟は少女の弁当に感想や好き嫌いを言うようになり、七月になると今度は〝阿澄〟のほうが蓮の実を甘露煮にしたものをタッパーいっぱいに持参して、自信ありげな顔で少女に食べさせたりもした。
秋には米と炊き合わせるための栗を拾いにいこうとを誘ったのをきっかけに、休日を共に過ごすことも増えた。二人で並ぶ姿が頻繁に目撃されるようになると、一年生のあの子は生徒会長のお気に入りの子、と噂がさざ波のように校内で広まっていった。
あの雨の日に〝阿澄〟に着せた白カーディガンは、肌寒い風が気になるようになってきた秋になっても持ち主の元には戻らなかった。クリーニングしたものを何度も返そうとしてくれたが、少女は「あなたに差し上げたものだから」と頑として受け取らない。
そのうち諦めたのか、ある日気がつくと〝阿澄〟はまるでもともと自分のものだったかのようにそれを着て登校していた。少女がにこにこと嬉しそうに「よく似合ってる」と褒めると、苦虫を噛み潰したような顔で、高そうなのに勿体ないので、とだけ返した。
それから冬を越え、翌春、一足先に少女が女学校を卒業したあとも、〝阿澄〟との交流は続いている。
少女は家から通える地元の大学へと進学した。
休みの日には〝阿澄〟と買い物や、図書館で勉強をして過ごす。学生生活の場が変わり必然的に会う機会が減った分、連絡が途絶えないよう少女はさりげなさを装って日々メールを送った。少女からの誘いを、〝阿澄〟は一度も断ったことがない。
大学生になっても男の影ひとつない少女を、町の大人達は身持ちが固く貞淑な証だと評したが、その一方で少女は〝阿澄〟が己の与えた白のカーディガンに身を包み、お下がりであげた制服のリボンを揺らして笑うのを、うっそりと眺めて過ごした。
+++
「叔母上は良い相手は居ないのかって、そればかりで嫌になってたんだ」
照りつける陽射しの強い八月の終わり、少女が大学二年、〝阿澄〟が高校三年の、暑い夏のことだ。
昼も過ぎ、太陽から逃げ場のない境内で少女が石畳の掃除をしていると、何の前触れもなく突如〝阿澄〟が寺に現れ、「どこか行こう」と少女を連れ出した。
うっすら汗ばんだ少女の手をぐいぐいと引く〝阿澄〟に、取るものも取り敢えず財布だけ掴んで出てきたので、あまりちゃんとした格好をしていない。〝阿澄〟は制服を着ていた。半袖のブラウスから少し日に焼けた腕が伸びている。夏休み中のはずだが今日は登校日だったのだろうか、とその細い腕を眺めながら石段をくだる。
こんな〝阿澄〟は珍しかった。何かあったのだろうか。家にいると叔母の恋人詮索がうるさいので連れ出してくれてよかった、と世間話を装って声をかけると、〝阿澄〟は一度びくりと肩を震わせてから振り向いた。
そこにはいつも通りの表情の彼女がいた。意志の強そうな美しい瞳でもう一度「どこか行こう」と言うので、夏の思い出に少し遠出してみるのもいいかもしれない、と二人は町で唯一の長いローカル電車に乗って終点付近の駅まで行くことにした。
三時間ほどかかるその駅を選んだのは、単にそこまでの運賃しか財布に入っていなかったからだ。
〝阿澄〟は行き先に終点を指さしたが、帰りの運賃分のことを考えると持ち金が足りない。田舎なので一駅とはいえ距離が長く、料金がだいぶ違うのだ。そう告げると「…往復か」と失念していたように言い、行けるところの中で一番遠くて知らないところ、と終点の一つ前の駅が二人の夏のバカンスの場所に選ばれた。
窓からぬるい風が吹き込んでくる車内に乗客はまばらだった。学生達のいない八月の田舎の電車など、こんなものだろう。いつもと変わらない他愛もない話で、少女達の時間は揺られていく。
〝阿澄〟の様子も特におかしなことはなかったので、勉強の息抜きに遠出でもしたかったのだろうと、少女は〝阿澄〟の年下らしい突然の我儘が自分にぶつけられたことを喜んだ。
何の下調べもせずに初めて降りたったその駅は、出てすぐ目の前に薄灰色の砂浜が広がる、海の真向かいにあった。
改札もなく木製の切符入れが置かれただけのそこは、駅とすら呼べない、潮の香りのするただの敷地だ。舗装された道路は一切見当たらず、当然民家もない。車内で揺られているときから周囲の風景がだんだんと緑と砂しか見えなくなっていたのでそんな予感はしていた。海水浴にきている人間たちがぽつぽつといるが、こんな田舎の外れなのに車で来られない場所なので数は多くない。
降りてすぐのところで、老婆が大きなドラム缶とパラソルを立てて移動式の屋台を開いていた。冷菓を売っているのだ。午後の三時も過ぎて最も気温が高い炎天下、少女達は顔を見合わせて老婆のもとへと歩みを早くする。
「いらっしゃい」
使い古されたドラム缶の中を覗くと乳白色の冷菓が涼しげにおさまっていて、二人の顔をひやりとした空気が撫でた。帰りの電車代を差し引くと、二人で一つならば買える。
私服と制服の若い女二人という組み合わせは奇妙だろうに、老婆は小銭を受け取ると特に何も尋ねることなく少し大きめに冷菓を盛りつけて、ありがとねえ、と皺だらけの顔で目を細めた。少女に渡された冷菓はひやりとして、熱をもった手に心地良い。
〝阿澄〟はざくざくと砂浜に革靴を沈めながら海のほうへと進んだ。潮の香りが強くなると生臭さが鼻につくようになり、う、と思わず鼻を覆ってしまう。気にならないのか、どんどん波打ち際のほうへ行ってしまう〝阿澄〟を追いかけるように、少女も早足でついていく。
立ち止まった〝阿澄〟に「溶けるよ」と早くも形をなくし始めた冷菓を一匙、口元にもっていってやると、彼女は雛鳥のように口をあけた。匙を差し入れるとぽたりと溶けた雫が唇にこぼれ、顎を伝っていく。
ふと、遠い前に忘れ去った悪夢が頭をよぎる。獣のように〝阿澄〟を犯した悪夢。
こぼしたことを謝るのも忘れ、少女はその様から目を離せずに見入った。一方で〝阿澄〟は汚れた顎を雑に拭うと、ぺろりと行儀悪く指を舐める。
海平線の向こうまで島一つ見えない広大な海の光景は、少女達の住む町では見ることのできないものだ。きらきらと反射する海面の上に、真っ青な空と白影の入道雲が乗っかって、先程こんもりと盛られた少し冷菓に似ている。
そんな夏の光景が〝阿澄〟の澄んだ瞳に描かれているのを、少女は見つめていた。
「貴方とは海を見たことがなかった」
〝阿澄〟が口を開く。確かにそうだと相槌を打つ前に、いつも湖ばかりだったから、と続けられ、少女はあれ、と思った。彼女達の町には、海だけではなく、湖も無い。裏山の大きな池のことを言っているのだろうか。あれを湖と呼ぶには少し小さい気もするが。
「全てのいのちの起源は海なんだって、どこかで見た。海は胎内だって」
〝阿澄〟は遠く海の向こうを瞳に映し出したまま、言葉を続けていく。
その話ならば叔母もよく言っていた。ただし少女が知っているのは、母なる海のように人々を包み守り、次の生命を産み継いでいくのが使命だと、懇々と聞かされた説法だ。
母親の腹の中で絶えず羊水に浮かび、血流の波打つ音を聞いている胎児の環境を、海に似ているととらえた考え方のようだった。人が時折海へ還りたいと思うのも、母への、胎内回帰願望の現れだとか。
誰か良い婿はいないものかとため息をつく叔母の顔が思い出され、少女の顔は曇った。
海がいのちを育んでくれるというのなら、自分の姓でも書いた紙を投げ入れて祈ったら、子供が湧いて出るようにしてくれればいいものを。
そうぼやくと、〝阿澄〟は少女のほうをしっかりと向き直り、伺い見るようにして尋ねてくる。
「貴方は、誰かと結婚して子供が欲しいとは思わないの?」
〝阿澄〟に結婚願望を問われると思わず、少女はきょとんとした顔をした。〝阿澄〟こそ、結婚になど関心がなさそうな子なのに。
「…自分と同じ顔の子供が生まれるかもと思うと、ぞっとしない」
少女は自分と妹の、双子のようによく似た容姿を思い浮かべる。相手が誰であれこの遺伝子の強さではきっと子供も同じ顔だ。長子に生まれたものの宿命なので家を継ぐのは仕方がない未来とはいえ、少女には自分の分身など気味が悪いように思えた。自分が孕む姿など想像もできない。出来ることなら、子供など欲しくない。
「いっそのこと養子でもとろうかとすら思う」と少女は至極真面目に話す。或いは妹が誰かと結婚したならその子に跡継ぎを譲るのでもいい。そんな少女の回答を、〝阿澄〟は大きな瞳で瞬きもせずに聞いている。
少女の手元の冷菓は気付けば原形を留められなくなって、たらたらと白い指を汚していた。その指先を拭ってやろうと、〝阿澄〟は手を伸ばしながら「それなら、」と呟いたが、あまりに小さな吐息だったので少女はそれに気が付かずに、言葉を続ける。
「でもあなたの子供は見たいな。きっと可愛い」
自分の分身なんかよりよっぽど愛せる自信がある。女の子がいい。〝阿澄〟にしてあげるのと同じように、髪を編み込んであげて、可愛い服をたくさん買って着せるのだ。名前はどんなのがいいだろう。あなたの子供なら欲しい。
小さな〝阿澄〟はさぞ愛らしいだろうと楽しげに想像を語る少女に、ざざん…と打ち寄せる波音が相槌のように賛同する。
しばらくそれを黙って聞いていた〝阿澄〟は、やがて少女の冷菓でべたべたに汚れた手ではない、反対側の綺麗なほうの腕を掴み、「帰ろう」と少女に背を向けた。
〝阿澄〟は帰りの電車が走っていくであろう、長い線路の先を見つめる。
その二つの瞳からは、先程まで映っていたはるかな海の色がぽろりと零れおちたが、少女がそれに気がつくことはなかった。
無断で寺から忽然と姿を消した挙句に、門限を破り潮の香りをさせて帰ってきた少女を、叔母と妹はいたく心配していた。急なことだったので家族に連絡一つ寄越さなかったことを反省したが、またきっと〝阿澄〟と二人きりで遠出をしよう、と少女は心に決めた。
+++
夏の終わりのたった半日の家出はすぐに忘れ去られ、普段と変わらない日々へと戻る。
大学へ通うかたわらで、どこの家の次男が帰ってきたようだとか、あの家の息子が出来がいいだとかと、叔母がこれみよがしに言ってくるのをのらりくらりと躱して、休みの日には〝阿澄〟と他愛もない時間を過ごす。受験が近く忙しいのか、冬を越す頃には〝阿澄〟は少し痩せたようだった。
三月になり、いよいよ今度は〝阿澄〟が女学校の卒業式を迎えた。あの初めて出会った時を彷彿とさせる柔らかな風の日に、少女は期待に胸を膨らませてかつての母校を訪れていた。
おめでとう。一緒に卒業旅行にでも行こう。今度はちゃんとお金を持って、遠い所でも。
式を終え、制服の胸ポケットに祝花を飾り校庭に立つ〝阿澄〟のもとへ行くと、少女はそう声をかけた。晴れやかな日だというのに〝阿澄〟の表情はどこか張り詰めている。
「卒業したら結婚する」
だから行けない。
〝阿澄〟の返事は思いもかけないものだった。
親の選んだ相手との結婚が、夏にはもう決まっていたらしい。卒業と同時に嫁入りするのだという。そんな素振りは全くなかった。だってあなた、わたしと同じ大学を受験したのに、と聞くと、記念に受けただけだと硬い声が返ってくる。
露にも思っていなかった展開に少女の頭の中は真っ白だった。
ただ厳しく躾けられた性質故に、「おめでとうございます」と言い慣れた言葉が形だけ口から洩れる。ありがとう、と答える彼女に、前世だか何かの勝手な運命を感じていたのは自分だけだったということだ。
いつまでも女二人、楽しい学生気分でいられると思っていた自分のなんと幼いことか。
相手の男は、少女でも知っているような有名な家の息子だった。容姿や性格など、評判が悪くない者であることも知っている。なぜならかつて叔母がしきりに少女に勧めてきたことがある男だからだ。あれこれ理由をつけて断っていたかつての見合い話が、まさかこんなことになっていたなんて。
嫁に行き遅れた女に優しい未来が期待できるほど、自分達の住む地域は都会ではない。
〝阿澄〟にとって自分が運命ではないのなら――この人生での正解は、〝阿澄〟の幸福な結婚を祝うことなのだろう。
彼女の幸せを誰よりも願っているのは自分だ。
何よりも大切に思っている。大事に大事にしてきた友人。
彼女が結婚したからといって〝阿澄〟が友人でなくなるわけではない。
この先もきっと変わらず、私達はともだち。
そして〝阿澄〟は死んだ。齢二十になろうかという若さで。
+
ただの「友人」である少女――もう少女という年齢ではなかったが――がそれを知ったのは数日たってからだった。晩夏の、雲の少ないよく晴れた日のことだ。
〝阿澄〟が結婚してからというもの、少女は〝阿澄〟と会うことがなくなっていった。
他家に嫁にいった者を気軽に外に連れ出すのは常識的ではなかったし、彼女の薬指に我が物顔でおさまっている指輪や、彼女にあまり似合わない色の服装を目にすると胸が潰れるような思いがする。〝阿澄〟のことを何も分かっていない男に買ってもらった服。それを大人しく着せられているなんて、と八つ当たりしそうになる。
〝阿澄〟も誰かの妻という新しい生活が忙しいのだろう、あちらから会おうと連絡がくることもない。それはそれで薄情ではないか、その程度にしか思われていなかったのかと、少女は煩悶としながら、薄れていく〝阿澄〟との関係をそっと嘆いているだけだった。
前世からの運命などという幻想は失われ、二人の歩む道は違う方向を向いている。
だから〝阿澄〟につい最近、子が産まれたことも知らなかったのだ。
祝事のために両家が集まった夜に一家全焼だという。掃除番の下男が煙草を咥えたまま居眠りをしたのが原因らしいと町では噂になっている。
ただどういうわけか、生まれたばかりの赤子だけが、何重にも布にくるまれて庭に転がっており奇跡的に助けられた。
名家の火事などという大事件はすぐに町中に広まり、少女のいる寺にも話は伝わった。
生まれてすぐに両親を失った赤子が気の毒だ、と近所の者が口々に言うので、そこでやっと少女は〝阿澄〟の死を漠然と知った。ただの友人――それも今は連絡をあまり取り合わない程度の関係では、そんな知らせも噂でしか聞くことができない。
少女は何の現実味も持てないその噂話をぼんやりと聞いたあと、自室に戻り自身の携帯電話を取り出すと〝阿澄〟の番号を押してみた。直接その番号を呼び出すのはいつぶりだろうか。彼女の連絡先は今でも何も見ず諳んじることができる。
当然呼び出し音は鳴り続けるばかりで誰もでない。五分ほどそうして画面に〝阿澄〟の名前が浮かんでいるのを眺めたあと、ようやく少女は架電を諦める。少し開け放たれた窓から生温い風が入ってきて、慰めるように少女の頬を撫でた。
どうして、と少女の口から漏れる。
どうして、夢の中の自分達とはこんなにもかけ離れてしまったのだろう。どうして、自分だけが前世などという幻想に気付いてしまったのだろう。いっそ初めから何も見たくなかった。運命なんてものをちらつかせるだけの夢など。
あの前世の男達と、自分達は、結局のところは全く別の人間なのだ。生きているだけで同じハッピーエンドに辿り着くと決まっているわけではない。それなら自分と〝阿澄〟の幸せな終点はどこにあったというの。
床に座り込んだまま〝どうして〟を繰り返し考えていると、唐突に少女の手元の携帯電話が鳴り始めた。見知らぬ番号からだ。
思考の海から引きずり出され、不審に思いながら少女が「はい」と電話にでる。
発信元は、町で唯一の総合病院からだった。
+
息をきらして病院へ駆け込んだ。受付で早口に名乗ると、事務員は少女を廊下の奥の面談室へと案内した。院内は午後になるというのに初診を待つ人でごったがえしている。事務員とはぐれないように人の間を縫って、少女はついていく。
事態がよく分からないまま、〝阿澄〟の子供について説明したいことがあるからと、病院の者に呼ばれてきた。
子供が生まれたことすら知らなかったような赤の他人を呼びつけるほどの、何かがあるというのか。そわそわしながら案内された小さな部屋のパイプ椅子に座って待つ。廊下を足音が通り過ぎるたびに来たか、と気になって仕方がない。
随分長く待たされる、と思っていると、部屋の扉からノック音が聞こえ白衣を来た人間と看護師らしき者が二人入ってきた。所属と名前を名乗るので、少女も簡単に自己紹介をする。二人は驚いたような顔をしてから、寺のことを知っているのか、いつもお世話になっていますと軽く頭を下げた。
急に呼びつけたことを詫びると、白衣を着た男は少女に一台の黒ずんだ携帯電話を見せ、神妙な面持ちで話を始めた。
火事の夜、庭に煤だらけの布にくるまれた新生児が転がっておりこの病院に運び込まれた。何重にも子を包んでいた白布を開くと、携帯電話がねじ込まれている。火災の間際に母親が何か残そうとして入れたのではないか、という話になり、病院の者達で電源をつけてみると、宛先が指定された未送信のメール画面が、そのままになっていた。
今際の際の遺言かと、宛先の名前を見たが分からない。少なくとも家族に宛てたものではないようだった。
調べようとしていたところに当の携帯電話が鳴り始め、まさしく宛先となっていた名前が発信元として表示されたので、はからずもこの遺言らしきメッセージを送りたかった相手が判明して連絡したという。――――先程少女がかけた電話のことだった。
少女は渡された携帯電話を震える手で受け取った。
ケースはひどく汚れていたが、間違いなく〝阿澄〟のものだ。助かった子の懐で守られていただけあって壊れてはいなかった。おそるおそるボタンを押すと画面が明るくなる。表示されていたのは自分達がよく使っていたメールアプリ。宛先は自分になっているが、送信はされていない。
『藍渙へ』
書かれていたのはそれだけだった。
――――――――藍渙。〝阿澄〟が知っているはずのない、前世の自分の名前。
ごとりと音を立てて、焼けた携帯電話が少女の手から滑り落ちた。
+
初めて〝藍渙〟に出会ったあの入学式の日は、歓喜よりも絶望のほうが大きかった。
女に生まれた今生ならば、正しく〝藍渙〟と結ばれることができると思ったのに、あちらも女ときた。また同性なのか、と。
こんな田舎の、仙術も権力もない平凡な身の上に生まれた女二人では、同性愛など世間に受け入れられはしない。
後ろ指をさされ何もかも捨てさせる人生を背負わせたくないから何も覚えていないふりをしていたのに、結局また貴方との日々から手を離せない。今生も、一緒に生きていきたい。
だからあの夏の遠出は賭けだった。
片道分の切符だけであのままどこか遠くへ一緒に行ってくれたなら、その時は─────今は女の身に生まれたことに感謝している。
貴方があの夏に「欲しい」と言ったいのちを、この身は産み落としてやれる。
+
少女は〝阿澄〟の遺児を引き取った。叔母らの反対と、遺産目当てに近寄ってくる赤子の遠い血縁達をいつになく強くきっぱりとした態度で押しのけて、子にとっての二人目の母となった。――――〝阿澄〟の子で、わたしの子。
〝阿澄〟によく似た大きくて澄んだ目と、見知らぬ誰かの面影をたたえた赤子は女の子だった。
子の名前はもう決まっている。
小さな手のひらを撫でた。ぎゅっと握り返してくる指は〝阿澄〟と同じで柔らかい。泣くでもなく少女の顔を見つめてくる赤子の無垢な瞳には、あの夏の日に見た二人だけの海が揺らめいている。少女は、〝阿澄〟が〝藍渙〟のために残したいのちと、生きていく。
2.虎と鹿(?×?)
背の高い木々が空に向かってみっしりと並び葉陰が鬱蒼と茂る大森林には、様々な生き物達が入り混じって暮らしている。絶えず鳥や猿達の声がこだまする緑の世界に、大きなゾウの隊列と点々とそこかしこに影を落とす鹿の群れ。倒木と落ち葉の裏ではヘビが寝そべり、小さな虫達は捕食者に捕まらないようせわしなく蠢いている。
その種々の営みの中、堂々とした佇まいで岩の上から辺り一帯を睥睨する一匹の獣がいた。
しなやかな筋肉がすらりとのびやや痩せた体躯のそれは、虎だ。木漏れ日が反射して何色ともつかない爛々とした瞳で、己の庭を監視している。時折ぴくぴくと鼻や耳を震わせ、今日もまた変わりなくこの命のるつぼが賑わっていること確認しているようだった。
そしてそんな虎の一挙手一投足に注意を向けるように、遠巻きにいる鹿達の何対もの目が見張っている。鹿だけではない。小型の猿の群れもまた見張りの目を増やすため、時に鹿と行動を共にしていつでも警戒の音を鳴らせるように虎のことを一心に見ている。虎が少しでも群れに近づくそぶりを見せれば、すぐさまその目のうちのどれかが捉えて逃げろ、と声をあげるだろう。
この森ではいつでも見られる、食うか食われるかのやりとりだ。
虎はそんな草食動物達にはまるで興味はないとばかりに頭を低くすると、岩から降りて悠々と歩き始めた。虎の歩みに合わせてざわざわと小動物達の波が移動していく。
食物連鎖の王者らしい足取りは川辺のほうへと向かっていた。雨季の間、増水した川の屈曲でえぐれた地面には水がたまり、乾季になるとそこだけに水が残って様々な動物達が集まる水場となる。渇きを癒やすために集まった数々の生物達が、虎が姿を現すと蜘蛛の子を散らすようにいっせいに身を隠し離れていく。
誰も居なくなった水場に我が物顔で辿り着くと、虎は欲しいだけ上澄みの綺麗な部分を舐め取って喉を潤す。
ふと、自分を遠巻きに見ている先程とは別の鹿の群れの中に、一点の白が際立っていることに気が付いた。それは周囲の鹿達よりも頭ひとつ分ほど大きな白い牡鹿だった。
何にも紛れられないほど目を引く白銀の毛は、光に照らされるとまるでこの森には存在したことのない、雪のような眩しさを放っている。他の鹿達の背にも散らしたような白毛はあったが、別の種類の生き物かのように白で包まれているのはその一匹だけだった。
異質に目立つものは、弱肉強食の世界では真っ先に死んでいくのが常だというのに、この牡鹿がおそらく群れで最も権威のある長であることは、空に力強く伸びた立派な角が示していた。
虎の視線が真っ直ぐに関心をもって自分達に向けられていると気付き、鹿達はにわかにさざめき始める。
つられて他の動物達も警戒の声をあげながら次々に木々を渡り揺らすので森はたちまち騒然となった。体の小さい仔らは何十にも重なったおとなの陰の奥に隠され、虎から目をそらさないまま草食動物の一線はじりじりと下がっていく。
その中で、白い牡鹿だけは虎と目を合わせたまま微塵も動かない。
肉食動物と同じ土俵の強者かのように対峙して、虎の注意を引いている。
虎はその険しい瞳に力を込めるように細めて牡鹿をよく見定めているようだった。虎の狩りは一割ほどしか成功しない。そのため普通は気配を殺して草陰に身を隠し、気付かれないように相手を見積もって、勝算のありそうな獲物だけを不意打ちで狙う。体の大きな鹿は得られる肉が多い代わりに、よく発達した体躯に蹴り飛ばされるリスクもある。もしも牙や骨を折られれば狩りができなくなり、即ちそれはこの自然界での死を意味する。
虎は己の雄としては痩せ気味の体と牡鹿の立派な体躯、相手との距離や地形をじっと比べ計っていた。
普通ならば諦めたほうがいい目算だ。相手は自分に気付いて既に警戒をしている。だというのに、虎はあの白い鹿を仕留めてやろうという気概を失っていない。
辺りからはとうに四本足の生き物の気配は消え去った。
群れはすべて森の奥深くへと足早に逃げ込み、高いところで二匹を眺める鳥の声だけがぽつぽつと響く。つい先程までのかしましさとは反面、この森には珍しいわずかな静寂が落ちた。
牡鹿の思慮深そうな瞳が一度、瞬いたのを虎は見逃さなかった。
その瞬間、虎の四本の足が地面を蹴り弾丸のように飛び出す。すかさず牡鹿も駆け出して距離を離す。――駆ける速度だけなら牡鹿のほうがわずかに速い。
しかし気候に合わせて枝葉を大きく広げた常緑樹の多いこの森では、地の利は虎にあった。
牡鹿の大きな角が突き出た枝や蔓に引っかかり、わずかに足を緩めた次の瞬間には、がばりと飛びかかってきた虎の鋭い牙が牡鹿の首に食い込んでいた。それと同時に牡鹿の蹴り上げた前足が、虎の躯体に真っ向から叩き込まれる。虎はそれにも怯まず食らいついた獲物を決して離さない。虎の瞳はその瞬間この森の誰よりも燦然と輝き、真皓き牡鹿のいのちが終わる瞬間を見据えていた。
牡鹿が窒息した頃、虎はようやく体を離した。牡鹿は絶命したあとも、光を失った瞳で虎をずっと見ているようだった。そこで虎はぴたりと動きを止める。仕留めた獲物を安全な縄張りに早く持っていかなければならないというのに――――動かない。
虎の肋骨は数本折れ、毛に覆われた胸のうちで肺に刺さっていた。フゥフゥと浅い息を苦しそうに繰り返すばかりだ。重たい牡鹿を咥えて移動することはできず、肺に血が溜まりろくに呼吸もままならない体では、もう狩りはおろかほとんど歩くこともできないだろう。
即ち、虎はもう、ここで牡鹿を食べたあとは死を待つしかない。
相討ちだった。
一声、雷のような虎の咆哮が響いた。
その怒りの声に遠巻きに樹上で冷やかしていた鳥や小動物達がいっせいに逃げ出し、虎と鹿だけが残される。牡鹿の瞳はまるで自分以外をその腹におさめ血肉とすることは許さないとばかりに、死してなお虎を真っ直ぐに見つめていた。
そのひと吠えで全ての空気を吐ききったのか、虎は牡鹿の上に重なるようにどさりと倒れ込んだ。邪魔をするものは誰もいない。
まだ暖かさの残る牡鹿の首に、虎は荒い息と拙い動きでゆっくりと牙を立て静かに最後の食事に取りかかる。生臭い血の味が、渇いた虎の口腔内を満たしていく。
白い毛は野生の森に生きていたにも関わらず、丁寧に鞣されて加工を施された革のようになめらかな舌触りだった。この自分のために差し出された血の一滴、肉の一欠片も他の誰にもくれてやるまい。
有象無象がさざめくこの森で、二つの生き物は重なり合って、まるで寄り添って眠るかのように静かに終わっていく。明日もまた誰かのいのちが、他の誰かの血肉となるのだろう。
3.男と青年(あり×なし)
今日は当たりだな、と男に体を揺さぶられながら青年は己の運の良さに気分良く声をあげる。
湿った重い雪が降り始める、冷たい冬の晩だった。
少しきつめの女顔の青年が、所謂“そういう出会いのための”店で首元のボタンを一つあけて軽めのカクテルを飲んでいると、一人の男が声をかけてきた。
やけに顔の整った白いワイシャツの男は一回りは年上のようだったが、店に入って青年を見つけるなり真っ直ぐに向かってきた。サンダルウッドの香りと場にそぐわない清廉な雰囲気を纏い青年の隣に腰をかけると、一、二杯分ほどの間会話を楽しんだのち、青年の腰に手を添えて二人で店をあとにする。一人で入ってきた客が二人で出ていくのは、一晩の合意がとれた証だ。ベッドの中での相手を見つけた客を、店は優しく送り出してくれる。
白い息を吐きながらよく使う近場の安ホテルへと足早に入る。早々に服を脱いで準備をする間、男はじっと青年のことを見ていた。青年は体を見られながら、こんなに顔のいい男がわざわざ相手を探しにあんな店に来る必要はないだろうに、珍しいなと思っていた。夜の相手には困らないような顔で、明らかに釣り合わない自分に声をかけるぐらいだから、特殊性癖があるワケアリなのかと少し警戒しながら。
その警戒心を裏切って、男は青年をとても丁寧に扱った。
処女でもあるまいに、ガラス細工でも触るようにあちこち尽くして、そんなことしなくていいと何度か急かしてようやく男は青年の慣れた体に己の欲望を突き立てた。男のきれいな顔が快楽で少し歪む。気をよくした青年がかき混ぜるように腰を動かしてやると、男は「慣れているんですね」と僅かに眉を顰め息を吐きながら呟いた。
男は繋がる前に当たり前のようにスキンを着けた。男同士だからと着けない輩も多いのに、そういうところも“当たり”だ。好みの顔、性格やマナーも悪くなく、心配したような特殊性癖も無い。何より自分の体を知りつくしているかのようにセックスが上手い。
青年は一晩関係を持った相手とは翌日後腐れなく別れる主義だったが、この男となら次があってもいいな、と後で連絡先を交換しようかと頭の片隅においた。年は離れているが、年上ならば割り切った関係を続けるだけの分別もありそうだ。
そう考えている間にも腹の奥を穿たれて意図しない嬌声があがる。男はどんな風に動いたら悦ぶのかわかりきったかのように一つ一つ青年の快楽を引きずり出していったが、男の欲望を受け入れることに余裕のある青年の体に、時々苛立ったように激しく動いた。
男は腰を振る間、青年のことを熱のこもった瞳で見つめていた。自分が女だったらこの視線一つで孕んでたな、この男の子供なら産んでもいいかもしれない、と馬鹿げた妄想に浮かされながら、時々鼻をくすぐるサンダルウッドの香りと汗の匂いに包まれて青年は普段より随分早く果てたのだった。
行為が終わると大人しく男はずるりと青年から出ていった。白い液体の溜まったスキンを外し、零さないようにゆっくりと口を縛っているのをぼんやりと眺める。
「…生まれたかったな」
気がつくと青年はそう口にしていた。
何億もの精子があの中で死んでいく。おびただしい数のいのちの可能性が、「生まれたい」と蠢きながら薄っぺらなゴムに閉じ込められて息絶える。自分にはあれらのうちのどれかひとつでも、救ってやることはできない。男の、まるで愛にも似た視線で見つめられて放たれたその先に、生まれてくるものは何も無いのだ。
男はハッとした顔で青年を見た。しばらく何かを探るように見ていたが、やがて青年から隠すようにそのスキンを備え付けのちっぽけなゴミ箱に捨てると、青年の体を気遣い、不要だというのに「自分の体を大切にしなさい」と風呂を沸かしに浴室へと向かっていった。こんな行為をしたあとで言うことでも無いだろうに。
一人ベッドに残された青年は打ちのめされていた。
「体を大切に」と言われた瞬間、もう長いこと会っていない父親のことを思い出した。男の、それなりに社会的立場が高いのであろう品の良さと、一番上までボタンがとめられた皺一つないワイシャツ。穏やかで育ちの良さを感じさせる口調。笑うとほんの僅かに寄る目尻の皺。
自分が何故、あの男となら次があってもいいと思ったのか理解した。父親とあの男を無意識に重ねて、拗らせたファザーコンプレックスが顔を覗かせている。
父親とは不仲ではないが、息子として上手に愛されることができなかった。何年も実家には帰っていない。挙げ句こんな性生活をしているのだから後ろめたさで余計に足は遠のき、孤独を誤魔化すようにあの店で一晩の相手を探す。泥沼のような悪循環の中でやっとこれなら関係を続けてもと思った相手は、一回り以上も年上の父に似た男ときた。その上生産性すらない。
――――――自分は父親に抱かれたい訳ではないのに。
青年は自身が男に父親を重ねたことに吐き気を覚え、先程いのち達が打ち捨てられたゴミ箱へとえずいた。
男は青年をやはり丁寧に風呂へ入れて面倒をみると、大切そうに髪まで乾かしてから「おやすみ」と額にひとつ、まるで小さな子供にするようにキスをして青年を抱きしめて眠った。
青年がかつて子供の頃、父親に素直にねだることのできなかった純粋な愛情を、男はいとも簡単にくれてみせる。父親の幻想を重ねたまま、あんな目で抱かれるのは耐えられない。
翌朝、男が目を覚ますと青年の姿はもう無く、ホテル代と思しき金だけがぽつんとサイドテーブルに置かれていた。
4.一人と一匹(なし×なし)
あるところに、一人の人間と一匹の黒猫がいました。
猫は道端で拾われた野良猫で、仔猫の頃から人間に可愛がられ自由気ままに生きていましたが、おとなになるにつれて自分のほうがはるかに寿命が短いのだということを理解すると、人間を一人ぼっちにしないために長生きしたいと考えるようになりました。
黒猫の体がすっかり大きくなって綺麗にととのえられた自慢の毛並みが少しぱさつくようになっても、分別がついて掃除機にじゃれついたりおもちゃを嚙みちぎったりしなくなっても、飼い主の姿にはまるで変化がありません。
いよいよ自分の生きる速度が人間より早いようだと現実を知って、いつか自分が死んだら、この寂しがりの人間がまた他の猫を拾ってくるのではないか、この場所をとられてしまうのではないかと焦りがつのります。
黒猫にはたびたび、不思議な出来事が起こりました。
かみさまの気まぐれで時折、いっときだけ人間になるのです。どういうわけか飼い主に正体が知られてしまうことは一度もありませんでしたが、同じ人間の姿で言葉を交わす度に、もっともっとと欲張りになっていくのを止められません。
自分が先に死んでしまったら、誰が彼の空いた膝の上を暖めてやるのだろう。別に猫のままでも構わないけれど、飼い主と同じだけの寿命が欲しかったのです。
十歳をすぎて猫としては十分すぎるほどおとなになったある日、黒猫は夢の中で、人間と同じぐらいの背丈がありそうなほど大きな猫に出会いました。
その大猫は毛は長くごわごわと伸び、きゅうと細められた瞳に鋭い牙を持ち合わせたおそろしい姿をしていましたが、首元には体に見合わないぼろぼろの細い首輪と小さな錆びた鈴がぶら下がっていました。
そんな大猫は初めて見るはずなのに、どういうわけか黒猫は、このおそろしい猫とは昔どこかで会ったことがあるような気がするのです。なんとも不思議な夢でした。
大猫は「人間になりたいのか」と、低く響くような唸り声で、黒猫に問いました。
「お前も仙狸になればいい」
「仙狸?」
「お前のような小さな命では猫又がせいぜいか。それでも自由に人間の姿になって、長い生を得ることができる。長く愛された特別な猫だけが、神通力をもって人に化けることができるのだ」
それを聞いてなんて素晴らしいのだろうと、黒猫の澄んだ瞳はきらきらと輝きました。
十歳の黒猫は、人間であれば五十歳程度の飼い主と同じぐらいの年齢です。立派なおとなに化けることができれば、守られるだけの仔猫ではなく彼の隣に立つことができるでしょう。食事を作ってあげることも、寒い冬に抱きしめてあげることもできます。
しかし、それから続いた言葉にぴたりと固まってしまいました。
――――ただし、飼い主のことを忘れ、恋しさ故に交わり精気を吸って、いずれはその腹のうちにおさめてしまうだろう。
猫又となり、人の姿をとって共に過ごせても、段々と人間のことを忘れ、食欲とも情欲ともつかない本能のままに愛する人を食べてしまうのだそうです。
それでも終わりのない命を得て、愛した人間の魂をその腹に抱えていつまでも一緒にいられる、と大猫は言いました。
「もしも望むのなら、数年後、庭のクチナシの花がこれまでにないほど美しく開いた日、お前の命が終わる前に、人間に見つからないように姿を隠し尻尾のちょうど真ん中を九回つくろいなさい。願いが通ずればお前の尾は割れ、猫又となるだろう」
+++
それから更に何度目かの春を越えた頃には、いよいよ黒猫の目は白く霞んで視力をなくし、食欲も体力も以前のようには奮わず、日がな一日寝て過ごすようになりました。それもそのはず、もう人間ならば八十近い年齢なのです。
たよりになるのは遠くなった耳で拾う人間のやわらかな声と、庭の手入れをする彼から漂う樹木の匂いだけでした。
クチナシの真っ白な六枚の花弁がかつてなくめいっぱいに広がり、意識が奪われそうなほど甘い香りが庭中に広がった初夏のある朝、目を覚ました黒猫は鼻を数回ピクつかせました。もう目は見えなくとも、毎年幾度となく一緒に過ごした庭の花なので何の香りかはすぐに分かります。いつになく強いその芳香に、黒猫は珍しく起き上がり、よろよろと窓辺のほうに近寄っていきました。
黒猫はナァン、と飼い主を呼び自分の前に座らせると、膝の上に陣取ります。それからずっと、そこからどこうとはしませんでした。
目をつぶり、昔のようには上手に音がでなくなった喉をゴロゴロと鳴らすと、変わらない優しい手のひらが黒猫の名前を呼びながら背中を撫で、そのままするりと尻尾の先まで滑っていきます。もっと、と尻尾をぱたりと一回弱々しく振ると、今度は背中だけではなく腹に手が回ってきて、まるで仔猫にそうするようにゆっくりとあやしました。
黒猫には、この場所はおれだけのものだ、と伝える人間の言葉がなかったので、かわりに一度だけ人間の左手にかぷりと噛みつきました。ちゃんと手加減して、けれど人間の表皮がぷつりと裂けて噛み跡が残るぐらいの力で。うっすらとまずい血の味が舌先に広がります。美味しくありません。
――――やっぱり猫又になんてならなくてもいいから、おれのことわすれるなよ。
人間は笑いながら「今日はどうしたの」と問いかけましたが、噛まれた手を引くことはありませんでした。
そのまま何度も何度も撫でてもらいながら、黒猫は初めて拾われた日のことを思い出していました。大きくなった体がずっと乗っていても、人間は重いとは言いません。これまでも、これからも、この膝の上は黒猫のためだけの場所なのでした。
昼が通り過ぎ、気温もすっかり上がってきてじわりとした湿気を肌に感じる頃には、頭の中で追いかけていた懐かしい記憶も曖昧になってきて、ひとつ、またひとつと黒猫は呼吸を忘れていきました。
ここは夢の中なのか、そうじゃないのか、もうほとんど何も分からないほど微睡んで、あの人の手のひらの温度と優しい声だけが一緒にいてくれる。
黒猫がいつのまにか喉を鳴らすのをやめて全ての呼吸を忘れてしまったあとも、人間は震える手でその体を撫で続けました。いつまでもいつまでも、日が暮れて夜がやってくるまで、ひとつ撫でるごとに失われていく体温に縋るようにうずくまったまま、愛するいのちの抜け殻を抱きしめていました。
どんないのちにも等しくやってくるおわりの時が、どうか穏やかで満たされたものであったようにと祈りながら。
5.藍渙と江澄
江澄が、己の金丹が薄れてきていることに気がついたのは、藍曦臣と生涯を共にすると決めてから百年は経とうとしていた頃だった。
高い修為をもつ仙師は、凡界の人々に比べて遥かに長い寿命をもつ。特に金丹を元嬰(※金丹から己の分身となる新たな肉体を作り出すこと、また作り出された体)へと高めることができる者であれば、寿命という概念がない。元嬰へと至らぬ者でも、戦いで命を落とさない限り二百年程度は生きる。仙師たる者、仙道の目指す先は不老不死――――天劫を受け、天界へと呼ばれることだ。誰もが不老不死を手に入れるため、長い日々を修練に費やしている。
江澄と藍曦臣にもかつて共に元嬰を目指してみようかという話が出たが、新しい肉体へと乗り換えて生きていくことに違和感を拭えず、踏みとどまっていた。この体には二人が時に距離を置き、時に近づき、紆余曲折の末に今の関係へと辿り着いた軌跡が刻まれている。
この体で生きてきたんだ、と胸元を撫でながら、新しい肉体を作ることに難色を示したのは江澄のほうだった。
藍曦臣も、神仙となり不老不死のまま天帝に召し上げられることよりも、この世界で今ある自分達のまま凡界の人のために生きていたいと言ったので、江澄は是と了承した。
こうして二人は仙門世家でも一、二を争う修為の高さであるにも関わらず、不老不死を目指すという仙道の歩みを止め、持ちうる金丹の限りを救世済民のためにふるい続けたのだ。
だから、これはごく自然な寿命なのだった。
金丹が生きるべき時間を生き、為すべきことを成し、全盛期を終えてゆるやかに訪れるおわりの季節。薄れていく金丹の寿命があとどのぐらいかはわからないが、同じものはいずれ藍曦臣にもやってくる。二人で選んだ、神仙ではなく人間としての生と死。
江澄にとって、父と、母と、姉には、死は突然理不尽に与えられた。かつての義兄もまた自然な終わりではなかった。
望まぬ形でこの世を去った彼らとはきっと魂の道行きは違うだろう。家族の誰もに守られた命を、江澄は一人の人間として最後まで全うする。いずれ魂魄がどこかの来世ですれ違ったら胸を張って報告するのだ、江家の跡取りとして恥じない素晴らしい人生であったと。
そうして、同じ道を選んだ道侶と輪廻転生を巡っていく。
江澄は、もう一人ではない。この先の魂の輪廻、どんな形で生まれたとしても、男ではなくても、人間ではなくても、同じ生き物、同じ時間ではなくても。生まれるたびに必ず互いの運命に関わりたいと思った。
「藍渙」
「なんですか、阿澄」
使い慣れた牀榻で共寝をしながら、ほんのりと窓から差し込んできた薄明かりに江澄は目を細める。夜明けがやってきた。
江澄のほうへと顔を少し傾けて、藍曦臣は「おはよう」と綺麗に微笑んだ。
その目尻にほんの僅か、かつては見られなかった小さな皺が寄るのを、江澄は見逃さなかった。自分達の肉体は、薄れゆく金丹と共に確かに時をすすめている。けれど自分のために笑いかけて形づくられたその小皺が眩しいのだ。この体で最期まで生きていくと決めてよかった。
お互いのかたちに沿って共に老いるということは、こんなにもいとおしい。
「おや…あなた前髪に白髪が」
「…目立つか?」
「いいえ、わたしの腕の中にいるから気付いただけ」
ならいい、おはよう、と江澄が吐きだした息を、藍曦臣が吸う。藍曦臣の体内を一度ぐるりと巡った酸素は、今度は吐息とともにすぐ目の前の江澄の肺へと取り込まれる。江澄が掛け布の内側で藍曦臣の手をそっと握ると、予想に反して相手のほうが手が冷たかったのか自分の体温がじわじわと受け渡されていくのを感じた。足先も触れ合わせると、今度は自分のほうが冷たく、藍曦臣のぬくもりが流れ込んでくる。
「貴方のせいか、俺まで朝が早くなった」
いつか、最期のひと呼吸もこの人の生きる鼓動の一つになるといいな、と思う。そうして紡いでいくものを、いのちという。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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