「阿澄。……阿澄」
返事はない。よく寝ているようだ。
「あーちょん」
もう一度確認で声をかける。阿澄は藍渙のベッドの上でふわふわの手足を投げ出してぐっすり寝ていた。耳を近づけてみるとスピ…と鼻を鳴らすような小さな寝息が聞こえて頬がゆるむ。――しっかり寝ている。
「…よし」
起こさないように慎重にベッドの上に腰をかけると、藍渙はそっと阿澄の体に顔を近づけた。毛色よりも少しだけ色の淡い、薄墨色の鼻先。少し湿っているのは健康な証拠だ。そこに自分の鼻先をそっとくっつける。これはインターネット曰く、猫の世界での基本の挨拶のようだ。
阿澄の寝息は時々プスプスと小さな空気音を立てた。寝言を言っていることもある。どんな夢を見ているのかな、と思ってじっと寝顔を見ていると、小さなゴロゴロ音が聞こえてきた。寝ながら喉を鳴らしている。
思わず可愛い、と声に出してしまい藍渙は慌てて口を閉じた。今は阿澄を起こしてはいけない。これから寝ている彼に少しばかり失敬するので。
囁くような声で「阿澄」と呼んでみたが、大丈夫そうだ。投げ出された前足の肉球をそっと触る。いつもはなかなか触らせてくれないのだ。爪を切るときにどさくさに紛れてふにふにと触ったことがあるが、たいそう怒られた。
華麗な猫パンチを繰り出す時からは想像もつかないほど柔らかくて愛らしい足先だ。調子にのって指先で撫でていると、くすぐったかったのか前足がひょいと引っ込んだ。反対側の肉球もつついてみると同じように引っ込める。
「ふふ」
思わず含み笑いが漏れる。あまりにも可愛い。こんないたずらをしても阿澄は目をつぶったまま再びスピスピと鼻息をたてはじめる。
あまり遊んでいると起き出してしまうかもしれない。その前に目的を達成しなければ。
「…ちょっと失礼」
一応声をかけてから藍渙はベッドに手をついて、阿澄の小さく上下する黒い腹めがけてそっと顔をうずめた。四十過ぎた男の肌を優しく迎えてくれる黒猫の毛は柔らかい。
ゆっくり少しずつ、肺の中を満たすようにふわふわの毛並みを吸い込む。天日干しにしたばかりの洗濯物。実は以前こっそりと肉球を嗅いだ時は少し違う匂いで、焼いたトウモロコシのようだった。その時はすぐに起きてしまって、そのまま顔に一発お見舞いされたのだ。
ああ、このまま眠りたい。
阿澄の匂いをめいっぱい吸い込みながら静かに目をつぶる。起きている時に吸おうとすると大暴れするのでなかなかゆっくりと堪能できない。昨日は五月二十日の愛の日だったので少し浮かれて抱きしめたら、バタバタと暴れて逃げていってしまった。寝込みを襲うようで申し訳ないが、どうしても仕事で疲れた時、こうしてぐっすりと眠る阿澄に少しだけ失敬して甘えてしまう。
もうあと数分もこうしていたら、腹のあたりに異変を感じた阿澄が起きるだろう。そして力強いパンチかキックかを食らってしばらく遠巻きにされるのだ。それまで、それまでこうやってぴったりとくっついていたい。
耳元からはまだスースーと可愛い寝息の音が聞こえている。
どうせ彼が起きたら怒られるのだからと、空いている方の手で阿澄の小さな前足をそっと握った。
――――そんなどろどろに溶けた男を、黒猫は閉じていた目をあけてちらりと見た。
やれやれと言わんばかりに尻尾の先をぱたりと一回振ると、まんざらでもなさそうにもう一度目を閉じて〝嘘〟寝入りを続ける。
その夜はそのまま本当に寝入ってしまった一人と一匹が、ベッドの上に転がっていたという。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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