4月1日 とくべつな日④

※4月1日エイプリフールに1日限定公開していたお話です。

この日はアカウント自体が「黒猫の阿澄」ではなく、「白い犬の渙渙」に代わっていました。






 






――――江澄、江澄、起きて。もう朝ですよ。今日はデートしようって約束でしょう。


 ううん、と唸りながらも目を開けない彼の頬にそっとキスをしてみましたが、彼は起きません。


 外はもう明るんできて、そろそろいつもの起床時間なのです。こうやって毎日江澄を起こすのがわたしの日課なので、必ず彼より早く起き出します。一日の最初に江澄の視界に入るのはわたしでありたいから。


 再びすやすやと寝息を立てはじめる江澄の頬を今度はぺろりと舐めてから、耳元でふうと息を優しく吹き込むと、江澄は目をつぶったままけらけらと笑いながら「くすぐったいぞ」と言いました。そう、江澄はもう起きていて、いつもわたしにこうやって起こされるのを待っているのです。

 笑っている江澄が可愛いので嬉しくなってもう一度キスをすると、おとぎ話のお姫様みたいに江澄が目を開けます。これがわたし達の朝の始まり。恋人達の素敵な朝でしょう? おはよう、江澄。


 「…おはよう、渙渙。今日も起こしてくれたんだな、good boy.」


 まだ少し眠そうな江澄が手を伸ばしてきてわたしの首元をそっと撫でます。…good boyって、子供扱いされているのが納得がいきません。抗議のつもりでぐい、と顔を覗き込んで江澄の唇を奪ってみましたが、「腹が減ったのか?」と笑っています。違いますってば。


 ――――わたしはもう三歳になってしっかりとしたダブルコートが生え揃った、立派なあなたの王子様だというのに!




 +


 わたしは犬の渙渙、そして一緒に暮らしている人は江澄といいます。大きな一軒家にふたりで住んでいる、幸せな恋人達です。


 江澄との寝起きの戯れを一通り堪能すると、わたしは洗面所に行ってブラシをひとつ取って戻ってきました。今日はハンガーラックにワイシャツが準備されていないので、休日なのです。江澄の仕事が休みの日は大体わたし達はデートに出かけるので、身だしなみに気を使わないといけません。

 「はいはい、ちょっと待ってろ」

 そう言って江澄はツルツルのマットを広げてからブラシを受け取りました。春先のわたしの毛はふわふわとたくさん舞い散るのです。まだこどもだった頃、わたしと同じ大きさぐらいにこんもりと抜毛が取れたのを見て江澄が「ふわふわだな…」と呟いていたのが忘れられません。わたしの毛をいっぱい集めて、いつか上着にして江澄に着せてあげたいものです。

 十分にブラッシングをしてわたしの毛が綺麗に整うと、床を簡単に掃除してから今度は江澄が洗面所に向かいます。先に駆け込んでタオルを引っ張り出して待っていると、お前は本当に賢い犬だなあと撫でてくれました。ふふん、だってあなたをエスコートするのがわたしの役目ですから。


 江澄の髪の毛はさらさらの黒色です。わたしもそれを丁寧にブラッシングしてあげたいのですが、江澄はいつも自分でやってしまいます。だから身だしなみを整える江澄をそばで見守ったり、江澄の服選びを一緒にしたり(デートの日はわたしが前足で選んだ服を着てくれるのです)、香ばしいパンとコーヒーの匂いを吸い込みながら一緒に朝食をとって、朝のひとときを過ごします。

 

 「よし、行くぞ」

 そうしてたっぷり朝の英気を養ったわたし達は、仲良く連れ立って出発します。デートの始まりです。



 





 天気は快晴。ふわふわと暖かくなってきた春の陽気にほころぶ花々。一面に広がる芝生とそこに立つわたしの江澄。なんて素晴らしい日でしょう。

 「最近忙しかったし天気も悪かったからな、久しぶりのドッグランで嬉しいだろ」

 江澄がわたしの首元からリードを外して、ほら行って来い、と促してきます。江澄、わたし、あなたと運命の赤い糸で繋がっていたいからそのリードが外れるのはかなしいです。そう伝えようと、少し歩いてからちらりと江澄を振り返ります。すると江澄は分かってるよと言って後ろからついてきます。少し違うけど、江澄をエスコートできることには違いないので、まあいいです。


 ここはわたし達がよく来るお気に入りのデートスポットです。いつもの散歩コースよりも少しだけ遠いのですが、ふたりで歩いていればそんなことは気になりません。

 広い芝生と小さな水場、季節に合わせて花をつける様々な木々やベンチもあって、思いっきりジョギングをして汗をかいたり、併設されたカフェで一緒におしゃれなランチをとることができます。わたし達が初めてキスをしたのもこの場所でした。たくさん走って、江澄に抱きついた拍子に一緒に芝生に転がって、わたしの腕の下で笑っている江澄が可愛かったので気がついたらぺろりと唇を奪っていました。江澄はあまり覚えていないようですけど、わたしにとっては大切な思い出です。

 いつかわたし達がテレビで見るようなシワシワの老夫婦になった頃には、「ふたりの思い出の場所」として語り継ぎたいものです。



 そんなことを思い出しながら走ろうとしていると、江澄の視線がどこか違うほうへ向いていることに気づきました。嫌な予感がします。

 「…あ」

 ……予感は的中です。入り口のほうに見えるあれは、時々ここで会うシベリアンハスキーのオス。

 一緒についてきている人間と目が合うと江澄はぺこりと会釈をして、近づいていきます。 彼らも今日ここで走るために来たようでした。

 ――江澄、浮気はだめですよ。

 江澄についていって軽く服の裾を引っ張ります。

 江澄は時々あのシベリアンハスキーを撫でるのです。なんでも、子供の頃に家にいた犬に似ているのだとか。心の狭い彼氏にはなりたくないので少しくらいは…と静かに横で座っていようと思うのですけど、「触らせてくれるのか? よしよし良い子だな…」「成長して精悍な顔つきになってきたじゃないか」「お前も毛がふわふわなんだな」などとしゃがみこんで甘い声を出しているので気が気ではありません。江澄、江澄? ちょっと長く触りすぎじゃないですか?

 「! ごめんごめん、放っといたわけじゃないぞ」

 江澄の背中を鼻先でつつくと、こちらを見てすぐに撫でてくれます。そんな他の男の匂いなんかつけないで。目の前のシベリアンハスキーからよく見えるように、わたしは江澄の唇にキスをしました。この人はわたしのものなんです、貴犬はあちらのジョギングコースにでもどうぞ。

 心持ちが伝わったのか、シベリアンハスキーと飼い主はそれからすぐに広場の奥のほうへと行ってしまいました。ここはこんな風に江澄を誘惑する犬達が多いのです。江澄は綺麗なのにふとした拍子に可愛さが顔をだして、いじらしいほど強がりの寂しがりだから、誰もが近寄ってきたくなる気持ちはわかりますけども。

 あなたが、わたしが来るまであの広い家に一人で住んでいた理由も、時々わたしのことを無言で抱きしめたまま何かを噛み締めている理由もわからないけども、あなたが寂しい時に手を伸ばす先はわたしがいいのです。このポジションだけは誰にも譲る気はありません。

 「渙渙」

 せっかく走りに来たのに中断して悪かったな、と江澄が謝ります。そんなことはいいんです、でもここはライバルが多くて心配になるので、わたしの匂いをちゃんとつけておかないと。

 江澄の首筋にそっと顔を近づけて頬をすりすりと寄せると、江澄はぎゅっと抱きしめてくれました。わたしの江澄。誰にもあげません。




 +



 ライバルは、ジョギングコース以外にも現れます。

 ひとしきり一緒に走ってから、少し遅めのランチのためにコース外にあるカフェに向かうと、お昼時も過ぎたというのに随分と賑わっていました。小さな犬達やその連れ合いの女性が多く、様々な話し声が飛び交っています。江澄、あそこがあいていますよ。窓際で眺めのいい席です。


 江澄はたくさん食べるのでここでよく大きなグリルハンバーグのランチセットを頼んでいます。いっぱい走ったあとの空腹にはたまらないのか、大きく口を開けて美味しそうに頬張る姿が可愛いのでじっと見ていたいのですが、ここでも気を抜くことはできません。

 

 「あの…わんちゃん撫でさせてもらってもいいですか?」


 ほらきた。ここで一緒に食事をしていると、若い女性が江澄に話しかけてくるのです。

 大体わたしをきっかけにして声をかけてくるのですが、本当は江澄と話をしたいのでしょう、休日はよくここに来るのかとか、どんな犬が好きなのかとか、そういうことをしばらく話しています。少し様子を見つつ、自分のランチに出されたさつまいものパンケーキをかじることにします。ほんのり甘くて口のなかでしっとりと優しい味が広がるのが、江澄と家でうとうととお昼寝をするときのじんわりした気持ちに似ているので、江澄のお芋と呼んで気に入っているメニューです。

 

 しばらくして江澄の足先が小さくとんとんと揺れ始めると、わたしの出番です。無意識なのでしょうけど、江澄はめんどうになって飽きてくるとこうやって足先を揺らすのです。特に家に持ち帰ってきた仕事をしているときや、電話口で誰かと話しているときなんか。

 わたしはそっと女性のほうに近寄って、前足を差し出しました。


 お嬢さん、申し訳ないけれどこの人はわたしの恋人なので、貴女にはあげられません。わたしの前足を触らせてあげますから、どうかお引取り願えませんか。

 なるべく優しく聞こえるようにくぅ、と小さな声を出して訴えると、女性の注意がこちらへと向きました。彼女は江澄に了承をとってから、私の前足と首周りを撫でてきます。害のある手つきではありませんが、江澄がこんな風に誰かに触られるのは嫌なので静かに我慢します。


 「渙渙は穏やかだが一応大型犬だから気をつけてくれ。…オスだからか、ここにくると女性に甘えたなんだ。女好きなのかな」


 ………………違いますよ!!!





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 ひどい、ひどいです! わたしは江澄を助けようと思ったのに、江澄はわたしが女性好きで愛想を振りまいてると思ってるのですね!

 「こら、もうドッグランじゃないんだからあんまり先に行くな」

 あのあとカフェを出たわたし達は、少し喧嘩をしながらもう一度コース内をゆったりと散歩をして帰路につきました。帰路といっても、いつもの散歩ルートに向かって、ところどころで買い物をしながら帰るのでデートの続きなのですが。

 いつだってわたしは江澄のことしか見ていないのに、他の人なんて誰のことも見ていないのに、江澄はそうではないのです。


 今だって、あっちでお野菜を買って、こっちでお肉を買って、かかってきた仕事の電話に嫌そうに返事をしたりメールの返信を打ったり。この世界のあちこちと、一対一で向き合って生きている人。わたし以外に興味を向けているのは心が逸ってざわざわするけれど、あなたが色んなものに対して見せる表情も好きだから、惚れたほうが負けなのでしょう。


 いつの間にか江澄の片手にはビニール袋が重そうにぶら下がっていました。中には今夜のお夕飯が詰まっています。あとはもう真っ直ぐな土手を家まで歩いていくだけです。

 色々と買い物をしながらのんびり歩いてきたので、空もうっすらオレンジ色に染まりはじめて太陽が傾きかけています。春の宵は、開いた花弁の水分がなめらかに光を彩って、色が溶けるような花明りとなるのです。冬の遠い夕日や、夏の色濃い暮れとは違う、淡い金色が溶け合うような、お散歩にぴったりの夕方です。


 江澄は、土手の斜面へと道をそれたかと思うとおもむろに草の上に座りました。隣に一緒に座ります。

 時々、江澄はこうして言葉少なに一日の終わりを眺めることがあります。河川敷の広場では、両親に挟まれて帰路につく子供だったり、姉弟が仲良く駆けていく姿や放課後に寄り道をして悪ふざけに興じる男子学生達が見えました。

 そういうときは何となく、江澄が寂しいときなのだと思います。今日彼は色んなものと接してきたのに、ここでこうやって座りながら、物欲しそうな子供のような横顔で世界を眺めているのです。


 向こう側から差してくる夕方の金色が、そんな江澄の瞳に水面のように映っています。真っ直ぐな髪の毛の一本一本が逆光に照らされて同じように金色に輝きました。きっともうずっと昔からわたしはこの美しい人を見つめているために隣に居るのだ、と思うのです。それから、その声で名を呼ばれるために。

 「渙渙、どうした」

 わたしがじいっと見つめていたせいか、金色を背負った江澄がこちらを向いて声をかけてきます。眩しくて、どんな顔をしているのかよく見えないはずなのに、わたしにはよく分かりました。少しあなたの表面をなぞるだけでは見つけることのできない、何かを大切に慈しむような色が、あなたの瞳の奥深くに澄み渡っていることを。


 あなたはその大切にしていた何かを失ってしまったから、寂しいのですね。


 そんな美しい人を、わたしはいつも見上げています。あなたにぽっかりとあいてしまった寂しい穴を、一緒に覗き込んであげられるように。

 柔らかい若草の土手に隣り合わせに座って静かにあなたを見ている今、この世界にはきっと、夕日に包まれたあなたとわたししかいないのでしょう。




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 「こら! 渙渙! どうしてお前はこれだけは覚えられないんだ」

 帰ってすぐに一緒にお風呂に入ってから、夕食をとってしばらく幸せな時間を過ごしたあと。就寝前は毎晩痴話喧嘩です。これはとても大事なこと。

 「ベッドにあがるな、お前の寝床はこっちにあるだろう…ほら」

 江澄はどうしても恥ずかしいのか、いまだに同衾を許してくれません。彼のベッドに入れてもらえないのです。恋人同士なのにどうしてでしょうか。一緒にお風呂には入るのに。わたしは十分に大きくなったので江澄を抱えて眠ることもできるし、寝ている間に守ってあげられるのに。

 それに江澄が子供好きなことも知っています。先日、近所のおうちで子犬が生まれたので遊びに行ったら、それはもう嬉しそうに子犬達を抱えてにこにこしていたじゃないですか。いつかわたしと江澄にも可愛いこどもができるかもしれないのだから、まずは同じベッドで一緒に眠るところからだと思うのです。


 「渙渙、おりろ、…よし、いい子だ、good boy」

 江澄が嫌がることはしませんが、わたしは諦めません。明日もきっと同衾のお伺いをたてますから。

 「ほら、今日はたくさん遊んだから疲れただろ。俺も久しぶりで楽しかったよ」

 そう言って江澄は彼のベッドから降りたわたしをわしゃわしゃと撫でてからぎゅっと抱きしめました。わたしもそれに返すように江澄に顔をうずめます。おやすみのハグです。わたしがこどもの頃から眠る前はこうやってハグをしています。


 今日は特別に素晴らしい一日でした。いつもは仕事で半日以上いない江澄と、朝から晩までずっと一緒にいられたのですから。江澄もそう思ってくれたのならこんなに嬉しいことはありません。


 わたしが自分のクッションベッドにおさまったのを見届けてから、江澄は寝室の電気を消しました。ごそごそと布の擦れる音が少ししたあと、しーんと部屋は静まりかえります。

 やがて江澄のつぶやくような小さな声が聞こえたので、わたしもそっと伏せて休む体勢になりました。


 「おやすみ、渙渙」










江澄、わたしね、あなたの夢の中にもきっと駆けていって、当然の顔で隣にいますからね。

あなたが寂しい瞳をして取り残された子供にならないように、

何か羨むように世界を眺めたりしないように、

あなたがぬくもりを望んだ時に手を伸ばす先は、いつもわたしでありたい。


だから、この特別に素晴らしい今日という日が終わってしまって、

この先のなんでもない毎日の中に埋もれていってしまったとしても

あなたと一緒にいたいわたしの気持ちだけは、当たり前のように傍にあるのだと覚えていてください。



おやすみなさい、江澄。

夢から覚めてもまたきっとあなたと一緒にいられますように。



あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。