会社の女の子から「写真を撮ってもいいですか」と聞かれた時、藍渙はてっきり阿澄の写真を撮りたいのだろうとばかり思って、彼が嫌がらなければどうぞと簡単に答えてしまった。
彼女は自身のスマホを構えると縦にしたり横にしたり、少し横にずれてみたりと集中したようにカシャリカシャリとシャッター音を響かせる。その音を訝しむように阿澄はぴたりと固まって、己を狙う小さなカメラレンズをじいっと見つめていた。
怖くないよ、と藍渙がしゃがみこんで阿澄を撫でると、シャッター音のことはどうでもよくなったのか藍渙のほうを見て一声鳴く。機嫌はそんなに悪くないようだ。時々ちらりちらりとスマホのほうを気にしていたが、藍渙にじゃれついて楽しげに過ごしていた。
藍渙は阿澄の写真を撮るよりも、絵を描くほうが好きだ。撮らないわけではないが、休みの日にお気に入りのスケッチブックを取り出して動き回る阿澄を描く時間のほうが愛していた。
決してじっとしていてはくれないモデルは、藍渙が筆をすすめていると「進捗はどうだ?」と手元を覗きにやってくる。目に焼き付けた一瞬一瞬を思い出しながら描く一筆には、その瞬間しかない生き様がこもっている気がする。すべらせた線一本に今日の君がいる。日当たりのいい窓際で、庭木のささやきと、せわしない黒猫と、スッと掠めるような筆の音を感じながら描きためたスケッチブックの中には、様々な表情の水彩画の阿澄がそこかしこに住んでいた。
だから、撮り終えた彼女から「よく撮れたのでぜひどうぞ」と何枚かの写真が自身のスマホに送られた時、とても新鮮な気持ちだったのだ。
そこには予想外に広く撮られた自身の仕事部屋と、楽しそうな男と黒猫がいた。部屋の真ん中でまるでスポットライトでも浴びているようにぽっかりと浮かび上がって見える。窓から差し込む光をいい角度になるよう微調整したのだろう。彼女が中途半端な中腰でしんねりと動いていたのはこのためだったのか、と藍渙は感心した。
画面を指でタップして拡大してみると、大きく映し出された男は笑っていた。黒猫のほうへ指を動かす。男の手を前足でつかまえようと振り上げた瞬間だったようだ。上向きにゆらりと大きな弧を描いた尻尾は今にも動き出しそうで、思わず藍渙はくすりと笑ってしまった。
この子と一緒にいる時、自分はこんな顔をしていたのか。
新たな発見に、写真も悪くないなと思う。たくさんの阿澄だけが詰まっているスケッチブックに、これらの自分達の写真を印刷して挟んでおこうと藍渙は決めた。彼は決して、ひとりきりで生きているのではないのだから。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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