にゃんたまがなくなった日

 黒猫は大暴れしている。

 「そんなに怒っても外せないよ」

 黒猫は抗議の声をあげている。

 「外しません」

 黒猫は自慢の肉球を振り上げる。

 「あんまり動くと傷が開くから…」

 黒猫は首を振って嫌がっている。

 「…………ごめんね」



 吹き抜けていく風のように冬が足早に去って行く。いつの間にか外でも昼の日差しがぽかぽかと暖かく感じられるようになった。春の予感はすぐそこまで来ている。


 阿澄がこの家に来て六ヶ月目を迎えようとしていた。拾った時に大体生後二ヶ月という話だったので、今は人間で言えば十四歳ぐらいの少年といったところだ。猫の成長は本当に早い。

 大きくなった体と春の訪れを前に、阿澄の主治医はそろそろ、と切り出した。――――去勢だ。

 本格的に暖かくなれば、盛りのついた野良猫達にも春が訪れる。雄猫が発情期を迎えるのは六ヶ月目からだというから、阿澄も時間の問題だ。発情期を迎えれば落ち着いては過ごせない。外の雌猫達にあてられてストレスを覚える前にと、去勢手術の準備は早々に進められた。病気の予防やこの先穏やかに過ごしていくために、必要なことなのだ。



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 手術が無事に終わったと連絡を受け、夕方に病院に迎えに行くと、エリザベスカラーをつけた阿澄はたいそうご立腹だった。本来はいらないのだが、目が覚めた時から傷口を舐め続けているので先生につけられたらしい。藍渙を見ると鳴き声を大きくしてはずせと訴えかけてくる。帰り道は終始ケージの中から暴れている音が響いていた。


 家に帰ってからも、外そうと転がってはごつんごつんとあちこちにぶつかり苛立ったように首を振る。大丈夫だから落ち着いて、と撫でようと手を出したら久しぶりに本気で噛まれてしまった。短い前足をぶんぶん振り回してもがく姿は不憫で仕方ないが、一日だけでもなんとかつけてと言われている。暴れて怪我をしないように見守るほかない。

 しばらく見ていると、突然火がついたように部屋中を走りはじめ、家具という家具に激突して驚いてひっくり返り、大慌てで走り出してまたぶつかって、を繰り返し始めた。流石に心配になって追いかけようとしたがあまりに素早いので捕まえられない。黒い塊がどたんばたんと走り回る。


 部屋の中を二周ほど暴れると、最後に藍渙の足に激突してからばたりとラグの上で寝転がってしまった。どこか怪我をしたのか心配になったが、疲れただけのようだ。尻尾は大きく膨らんでべしべしと床を叩き、これを外せと不満げな声を出している。せめてもの詫びにおやつを口元に持っていくと器用に寝転がったままむしゃむしゃとがっついていた。



 阿澄にはこれでもう、血の繋がった家族は絶対にできない。

 他の猫を飼うつもりはないので、時々聶家の飼い猫と触れ合うぐらいしか友達もいない。自分にも、人間の家族が増える予定はない。阿澄はこの先も自分とふたりでこの家で暮らしていく。

 いつか病院で「この子にはもうあなたしかいない」と言われた言葉が思い出される。阿澄の世界には、ご飯とおもちゃ、いつでも眠れる寝床、ケージに揺られて眺める外の風景。そしてそれらを与える藍渙。それが全て。

 二十年あるかないかの一代かぎりの命にとって、自分が全てなのだ。


 床に転がっている阿澄を今すぐ抱きしめたい衝動にかられる。実際にそうすると機嫌の悪い阿澄に怒られそうなので、ぐっと我慢して隣に座るだけにとどめる。床の上は真冬の頃ほどではないがほんのり冷たい。

 阿澄は素早く立ち上がるとガラス玉のような目を見開いてじっとこちらを見つめた。尻尾は先程よりもさらに膨らんだままピクリとも動かない。次は何をされるのかと阿澄の張り詰めた苛立ちが伝わってくる。




 猫に九生ありというが、本当に九回生まれ変わってくれればいいのに。いや、それだと自分のほうが先に死んでしまう。誰もいなくなったこの家で、たった一匹残された阿澄がおなかをすかせてにゃあにゃあと鳴いているところを想像する。あるいはつめたい布団の中で丸くなって、帰ってこない自分をじっと待っているのか。そんなのは耐えられない。やはり阿澄の幸せな猫生のためには自分が長生きしなければ。


 だとすると、と今度は阿澄が死んだあとのことを妄想する。

 朝起きて、おはようと言う相手はいない。台所で一人分の食事を黙々と作る。誰かのために分けて作る必要はなく、早く作ってと急かす鳴き声も聞こえない。食事を終えても、我が物顔で膝を占拠して撫でろと要求するものがいないので、行くあてのなくなった手のひらをどうしたらいいのかと途方に暮れる老いた男。この先なんのために生きていけばいいのか。

 そこまで考えて、思わず膝を抱えて俯いてしまった。その先のことは想像したくない。阿澄に自分しかいないように、自分にも一緒に暮らしたい相手は阿澄しかいないというのに。

 

 「ん?」


 思考の海に割り込んでくるように、いつの間にか阿澄が抱えた膝の下にいた。

 エリザベスカラーをつけたまま、ぐいぐいと太腿の間から顔を出そうとするので、ぱかりと膝を開いてやる。首周りが邪魔なせいか、それ以上は乗り上がってこない。目つきは剣呑なままだが、怒るのはもうやめたのだろうか。じと、と腹のあたりを見たまま動かない。

 

 「あーちょ…゛痛゛い‼」

 二つのガラス玉が、ぎらりと喝を入れるように鋭い眼光を放った。

 阿澄は藍渙の股間めがけて素早い一撃を繰り出すと、ひゅんと縮こまる膝の間から抜け出して、どこかへと去ってしまった。


 獲物の急所を仕留めるには完璧な拳だった。大事なものを取られ、首には鬱陶しい襟巻きをつけられた阿澄の仕返し。残されたのは身を屈めて耐える男。一気に霧散していく馬鹿げた妄想。遠い未来を勝手に想像して落ち込むより、目の前の阿澄と向き合えということだ。


 しばらく転がったのち、よろよろと寝室に向かうと阿澄はケージの中で眠っていた。寒さで震えている様子はなかったが、柔らかいタオルを一枚とってきてかけてやる。


 今日は喧嘩をしたまま一日を終えてしまった。明日になったら機嫌が直っていることを願う。

 どんな風に日々を過ごしていても、等しく季節は巡ってくる。目をそらしている場合ではないのだ、うかうかしている間に今度は夏がやってきて、暑いからと一緒に寝てくれなくなるのだから。毎日阿澄のために揺らした感情を大切に憶えておこう、と藍渙は胸に刻む。いよいよ庭の草木達もさざめきだす直前の、早春の頃のことだった。

 












※以下は投稿時のツイートです


 その晩は不思議な夢を見た。

 阿澄が仔猫をくわえてきて藍渙の前にぽとりと落とす。それを拾い上げると仔猫はすう、と手の中で消えてしまった。慌てふためいて足元を見ると、心なしか一回り大きくなった阿澄がさもありなんと言いたげな顔で「にゃあ」と鳴く。

 藍渙の胸のうちで、消えた仔猫が鳴き返した気がした。

あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。