12月25日 とくべつな日②

※12月25日クリスマスに1日限定公開していたお話です。








 メリークリスマス、メリークリスマス! 聖夜の愛しいこども達!

 煙突掃除と靴下の準備はできているかな? ツリーのてっぺんに一番大きな星をのせて、真夜中の忙しいサンタクロースにホットミルクとクッキーを準備しよう。

 今日はどんな家の、どんな生まれの、どんな姿のこども達も、等しく満たされて与えられる日。

 つめたい冬の一日に、きみが暖かなこころを誰かと分かち合えますように。


 初めてのクリスマスが、忘れられない奇跡をもたらしますように――――――――



 









 世界中の子供達が、期待に胸を膨らませて一年待ち望んだ日。

 阿澄は機嫌の悪い朝を迎えていた。


 こたつが登場してからというもの、毎晩毎晩毛が逆立つほど寒い。阿澄は飼い主をあたためてやろうと善意のもと、藍渙のベッドに潜って眠る夜が続いていた。特に昨晩の冷え込みはひどかったので、彼の腹の上でぬくぬくと暖をとって寝ることにした。ところが今日はカイシャに行かない日のはず…と油断していた土曜日の朝、いつもより随分早い時間に突然藍渙の携帯電話が鳴り、寝床に冷たい空気がヒヤッと流れ込んで起こされてしまった。


 意識の半分は夢の中に残してきたまま、さむいぞ! と抗議の鳴き声をあげたが、藍渙は阿澄をひと無でしただけでなにかを話しながら起き出して寝室を出ていく。まだ部屋は薄暗く寒夜の名残が残っているというのに、暖をとっていた人間がいなくなってしまった。


 残されたぬくもりを探すように毛布の中に潜り込み、うとうとと二度寝の誘いに身を任せてもう一度夢の世界へ入った…というところで、「阿澄、阿澄」と何やら少しうわずった声がパタパタと足音をたてながら寝室に戻ってきた。藍渙だ。

 うるさい、おれはここからでないぞ、と心の中で返事をしたが伝わるはずもなく無情にも阿澄をくるんでいた布団がめくられる。


 「ちょっとおいで、寒いと思ったら雪が積もってるんだ」


 途端につめたい空気が全身を襲う。やめろやめろと毛布の海の奥深くに逃げ込もうとしたが、開かない目と寝ぼけた体では藍渙の手からは逃げられず、そっと抱き上げられる。離れていく愛しい寝床。やめてくれ、あそこで寝ていたいんだ。

 藍渙の手の中でぶるぶると震えていると寒いね、とぎゅっと抱え直された。布団にはかなわないが、暖かい。仕方がない、この飼い主は自分がいないと寂しがりなのだ。用事があるなら付き合ってやろう。そしてさっさと終わらせて布団の中に戻らせてくれ。


 どこに運ばれるのかと半目のまま尻尾を丸めて揺られていると、藍渙はリビングの大きな窓に近づいていく。なんだか嫌な予感がする。


 外はほんのりと薄明るい程度、人間が起き出すにはだいぶ早い時間のようだ。あたたまった寝室と違い、一晩冷えていたリビングの空気は素っ気なく一人と一匹を出迎える。

 太陽がしばらく降り注いだ昼過ぎならば、窓から少し離れた床の上で微睡むのはぽかぽかと気持ちいい。けれど朝一番の窓のそばはいつも一段と冷たいことを阿澄は知っていた。夜のあいだにたっぷりと冷気を溜め込んだガラスが、カーテンの向こうでつめたい息を吐きながらそびえているので絶対に近づきたくないのだ。

 「ほら、少し積もって…ホワイトクリスマスだ」

 阿澄は雪を見たことないでしょう、と藍渙は片手で躊躇いもせず冷え切ったカーテンをさっと開けた。――――しろい、つめたい、さむい。


 庭は初めて見る景色だった。地面はところどころ草が見えているもののほとんどが白く覆われてぼんやりと反射している。よく窓から眺めているクチナシの木は、先日橙色の実をつけたばかりだったが白いものが積もって重そうだ。時々阿澄に手を振るように葉を揺らしてくれる低木が、すっかり静まり返っている。

 昨日まで窓の外はこんな景色ではなかったのに、誰が一晩でこんな風にしたのだろう。見ているだけで寒々しい姿の庭は見知らぬ土地のようで、阿澄は目をまんまるにしたままぴたりとかたまっていた。


 そんな阿澄を見て、藍渙は何か勘違いしたのかにこにこしながら「ちょっとだけ一緒に庭に出てみる?」と窓に近づいて手をかけた。ぐっと冷気が忍び寄ってくる。やめろそれをあけるな、さむいからおれはでたくない!

 ばたばたと暴れると抱えられていた片腕が不意に緩み、阿澄はバランスを崩してぐらりと傾く。あ、ぶつかる、と思った時には窓ガラスに顔面からごつんと突っ込んでいた。鼻先に猛烈な冷たさが滲んで、ひゅっとヒゲが縮こまる。ぶつけた鼻がじんと痛む。

 「あっ! ごめん、だいじょう…っ痛!」

 慌てて抱え直されたが、もう我慢の限界だ。ただでさえ早くに起こされて眠いのに布団から引きずりだされ、付き合ってやればわざわざこんな寒いところで落っことされそうになって!

 カッとなって気がついたら己の肉球を振り上げて一発食らわせていた。それがちょっと、ほんのちょっとだけ感情的になってつい爪が出てしまっただけだ。そんなつもりじゃなかったのに、藍渙の頬には三本、ピンク色の傷がくっきりと浮かび上がる。

 しまった、と思ったのは腕から抜け出して床に飛び降りてからだ。しかも降りるときに藍渙の足を思い切り踏んづけてしまった。


 引っかかれた当人がどんな顔をしているのか見たくなくて、阿澄は一目散に寝室のベッドへと走っていく。ベッドに飛び乗ると、羽毛布団の中へとできるだけ奥深く潜り込んで引きこもったのだった。






 




 「……?」

 ふわりと目を覚ます。やさしい暗闇のなかで、ほんのり外の明るさが透けて布団の模様が浮かび上がっている。

 ベッドに潜り込んでふわふわの毛布にくるまって、誰からも見られないように小さくなってふて寝しているうちに、阿澄は三度寝に陥ってしまったようだった。


 ――――おれはここでしゃちょーと寝ていたかっただけなのに。なんでこうなってしまったのだろう。


 ふて寝をしても、どうしようという気持ちからは逃げられず耳が下がってしまう。やってしまった。相手が痛いと思うほど噛んだり引っかいたりしたらいけないのだ。

 腹の虫はいい加減起きろと鳴いているし、ここで寝汚く引きこもっているわけにもいかない。少し彼の様子を見に行って、顔の傷を舐めてやろう…とのそのそとベッドから降りようと前足を床へと伸ばす。


 「うわっ あっ゛いだっ!」

 ドスン、ととんでもない音と共に、顔から落ちて冷たい床に体を打ちつけた。そのままごろんごろんとのたうちながら一番ダメージの大きい鼻先を抱える。ついさっきも同じところを窓にぶつけ……………今のは誰の声だ?


  「…………あ?」


 寝ぼけて靄がかっていた頭が急速にはっきりとしていく。


 床の上に転がったまま視界に入るのは、五本ずつの長い指、飼い主とおそろいのすっと伸びた足。どういうわけか裸ではなく服はちゃんと着ている。綺麗に手入れしていた黒い毛並はどこにも見えない。床が遠い。じんじんと痛む鼻をおさえてみたが、いつものように湿ってはいない――――――――おれは今、人間のかたちだ!


 阿澄はこの感覚をなんとなくどこかで知っている気がしたものの、どうしてかは分からなかった。ただ、よっ、と起き上がって二本の足で立ってみると、何の不自由もなく真っ直ぐと地に足をつけていることができる。猫のときには前足で何かを支えにしないと立ち上がれないのに。やはり人間のやり方を知っている気がする。


 毎日見ているはずの寝室は目線が違うだけで全く見知らぬ場所のように思える。阿澄は部屋の隅におかれたちっぽけな段ボール箱をじっと見つめた。思えばあの小さな陣地が安心できる世界のすべてだった頃と比べて、随分と阿澄の縄張りは広がった。今ではこの柔らかなベッドも、至福の浴室も、様々な匂いが入り混じったキッチンも、家主の膝の上も、ぜんぶぜんぶ阿澄のものだ。

 「…おーい。しゃちょー…いないのか……? ………しゃ……じゃなくて………ら、…らんふぁん…?」

  猫の体では出したことがないような派手な音をたててベッドから落ちたにも関わらず、藍渙は現れない。いつもはちょっと鳴いただけでも顔を出すのに。そろりそろりと寝室から出て、おそるおそるリビングを覗き呼んでみても何の気配もない。


 あちこち家中の部屋を覗き込んで探しまわったが藍渙はいなかった。最後に入った洗面所で、鏡に写った少年と目が合う。

 どこからどう見ても完全に人間だ。自分らしさの名残といえば顎のあたりまで伸びたつやつやの黒い毛と、つり上がった瞳ぐらいだろうか。髪の毛があっちこっちに散らかっているのが気になって、真新しい人間の手で毛づくろいをしてみると、顔の横でなにかに引っかかる。――――こんなところに耳があるんだった。左右についた硬い襞は頭の中へと穴があいているようだったが、自分では動かすことができない。音もあまり遠くまで拾えない。

 (おれはしゃちょーより、かなりちびなんだな)

 藍渙の背丈の半分よりは越えていそうだが、何回りも小さい自身の体格に阿澄は少しがっかりした。日頃つよいねこになるためにかくれんぼや猫じゃらしとの鍛錬を頑張っているから、もうちょっと自分は大きいと思っていた。


 着ているものには見覚えがある。藍渙の服だ。彼が部屋着にしている薄水色の厚手のパーカーは、自分では袖が余って指先も出ない。黒い猫毛があちこちについているのが申し訳なくなって、軽く振り払ってみる。首の後ろにはすっぽりと頭を覆えそうな袋がついていたのでかぶってみると、ふわ…と慣れた匂いに包まれて不思議な安心感があった。

 だぼだぼのズボンは膝丈のハーフパンツだったため、裾こそ引きずらないが手で持っていないとストンと落ちてしまいそうだ。紐を引っ張るとなんとか尻からずり落ちない程度には絞られたが、上手く留めることができない。結ぶという発想はないので、ぎゅうぎゅうと思いきり引っ張ってから、ぐるぐるに捻って巻いてズボンの内側に適当にねじ込む。

 もう一度鏡を見ると、さっきよりも幾分緊張のとれた顔の少年が立っている。結構上手に人間らしくできているのでは。


 それにしても、この家の主はどこへ行ってしまったのだろう。

 人間の体に気を取られていたのも束の間、早朝の出来事が思い出されて阿澄の胸のうちを仄暗く染める。


 ここのところ、ほんのちょっとの留守番を任されることはある。足りない食材を買いに行く時、少し遠くまで大きなゴミを出しにいかないと行けない時など、「少し留守番していてね」と藍渙は家を出る。三十分にも満たないささやかな別離だ。会社でも藍渙が部屋を離れることは多いので特別気にしたことはなかったが、きっといつものようにすぐ帰ってくるだろうと楽観的になるには朝の出来事が脳裏をよぎる。


 (怒って出ていったのか…?)

 大きなパーカーのフードの中で俯いた阿澄の表情は曇っていく。だらんと伸びた袖を鼻先に当てて彼の匂いを吸いこもうとするほど、そわそわと落ち着かない気持ちが次から次へと襲ってくる。この匂いがかえってこなかったらどうしよう。

 …ちょっとだけ、さがしにいこうか。

 すぐ帰ってこられる距離の分だけ、知ってる道を少し見てくるだけなら。今のこの姿でなら、カラスに襲われたり見知らぬ人間に捕まったりしないだろう。絶対に帰ってくる〝しるし〟を家に残しておけば、万が一入れ違いに藍渙が帰ってきても心配しないはずだ。


 阿澄は、自分が玄関や会社の外へ続く扉に近づくと、ほんの少し藍渙が強張った雰囲気を纏うことに気付いていた。一晩の家出のあと、自分を抱きしめて静かに涙を流していた男をずっと覚えている。彼は寂しがりで、自分が出ていくことを恐れている。だから一緒にいてやらないと。


 急いで寝室に戻ると、阿澄はハンガーラックに掛かっていた藍渙の白いマフラーを引き抜いてぐるぐると自分の首に巻きつけた。外の世界では首輪が無いと〝野良〟に思われてしまうと、かつての家出で学んだ。手触りのいいそれは阿澄の口元を優しく包み込み、慣れた飼い主の匂いが胸いっぱいに流れ込んでくる。自分はちゃんとこの家の子。首輪があるから、野良じゃない。

 代わりに、ベッドに転がっていた自分の小さな首輪をマフラーのあった場所にぶら下げておいた。あとでぜったい返しにくるから、これは家出じゃないぞと念じながら。


 ばたばたと玄関に向かう。裸足で三和土に飛び降りた途端ヒヤリと足裏を襲った寒気に、人間は靴を履くのだったと思い至る。タイルで出来た地面はまるで朝鼻先をぶつけたにっくき窓ガラスのようだ。靴も少し借りようと、阿澄は自分がよくかじっている黒い革靴にすべすべの足を潜り込ませてみるが、あまりにもぶかぶかで重たく、とても歩けない。

 玄関に置いてあった靴すべてに一通り足を入れてみたのち、なんとか歩くぐらいならできそうなクロックスサンダルを拝借することに決める。藍渙のゴミ出し用のそれは隅の方に追いやられていたものだったが、つま先に足を押し込むようにしていれば、足の甲が少し擦れるが歩けないことはない。


 明らかにオーバーサイズのパーカーとハーフパンツ、裸足にすっぽ抜けそうな季節外れのサンダル。ぐるぐると巻かれただけのマフラー。

 これでいっぱしの人間の出来上がり、と満足げに鼻を鳴らし、奇妙な格好の少年は外へと続く玄関の扉に手をかけたのだった。




 +




 「……さっっッむ…!」

 一歩外へ踏み出すと、突き刺すような冷気が阿澄の顔や素足に張り付いてくる。身に纏った藍渙の匂いだけが阿澄を玄冬のしんとした空気から守ってくれるようだった。

 緊張とも興奮ともつかない胸の高鳴りを抱えて踏み出した外の景色は、いつもケージで揺られながら見ているものとはまるで違い、朝窓から見たように大部分がうっすらと白く覆われていた。家のすぐ前の道端、側溝の上まで数歩あるいて立ち止まる。薄白色に雪が積もったそこは、まだ寒くなりはじめの頃に藍渙に拾われた場所だ。阿澄の最初の一歩の足跡が雪の上に残る。


 とりあえず、見慣れたほうの道に行こうと阿澄は歩き出した。藍渙に連れられて外を見ているので何となくなら分かる。しばらくまっすぐ行くと大通りに出て、道沿いにひらけた公園があるはずだ。その先はよく覚えていないが、何回か道を曲がるとちゅーるを買う店や日々通っている会社があることは知っている。藍渙の縄張りはそう広くないはずなのだ。曲がり角二つぐらいまでなら帰り道を忘れずに戻ってこられる。

 サイズの合わないサンダルをぺったぺったと響かせながら進んでいく。たった数歩にも関わらず、外気に晒された素足は指先はすっかり石のようにこわばってじんじんと軋んだ。はあ、と吐く息が白いのはどうしてだろうと、何回も暖かな吐息を空に向かって吹きかけた。


 「…ゆき」


 朝、一緒に庭に降りようと誘われたのを思い出す。

 そこかしこの家の塀から顔を出している葉の上にのしかかった白いそれに、袖口から指を出してそっと触ってみたが、キンとした冷たさにあわてて引っ込める。これが雪。指先についた白い粒がじわ、と色をなくして水になっていく。次の葉っぱの上の雪も、その次のコンクリートブロックの上の雪も、その先のマンホールの上に積もった雪も、全部ちょんちょんと一回ずつ指先でつついて確かめたが、どれもこれもが同じようにひどく冷たいので、藍渙の誘いにのって庭に出なくてよかったなと阿澄は湿った指先を袖の中にそっと仕舞ったのだった。


 それからは時々自分の足跡を振り返って確認しながら、白く伸びる道をひたすら歩いた。

 閑静な住宅街の一本道を抜けると、途端に交通量の多い賑やかな通りに出る。この先は慎重に道を覚えていないと帰れなくなるぞ、と阿澄は急に騒がしくなった見慣れぬ世界に足を止める。


 ふと、一際目立った人間が少し先に立っているのに目がとまった。全身燃えるように真っ赤な服を着て、横幅も随分と広く腹が出ているので余計に目立つ。

 どうやら公園の入り口で道行く子供達にニコニコとなにかを配っているようだった。近づいて見てみると顔のあたりは真っ白い毛でほとんど覆われた毛むくじゃらで、そこだけ見れば人間というよりは長毛の懐桑に似ている気がする。


 そういえばこんな赤い服の人間を、ここ最近〝てれび〟でたくさん見かける。こういうのが人間の流行りなのだろうか。

 「メリークリスマス! 素敵な一日を過ごせているかい!」

 真っ赤な人間は阿澄に気付くと、低くそれでいて陽気な声をかけながら「どうぞ」と何かの紐を渡してきた。よくわからないまま受け取ると、紐から空に向かって伸びた先に丸い紫色の玉がふわふわと浮いている。

 「めりー…?」

 「そうさ、今日は世界中の良い子達に素敵な贈り物が届く日だ」

 「………」

 素晴らしい日だろう、と片目をつぶって見せた男を前にして、それは自分にも当てはまる話なのだろうかと、阿澄は揺れている玉を見上げながら思案した。

 つい今しがたこの陽気な人間から色とりどりの玉をもらったばかりの子供達が、公園内で家族と楽しそうに遊んでいる姿が目に入る。阿澄のように一人きりの子供はいない。特別な日はあの人間の子供達のためのもので、何より藍渙に傷をつけた自分は良い子でもなんでもない。

 阿澄は赤い人間のほうを見ると口ごもる。そんな様子を白い毛むくじゃらの向こうで二つの瞳が優しく見守っている。

 「おれ…いいこじゃなかったから…」

 そう消え入りそうな声で呟くと、人間は可笑しそうに口元の真っ白な毛を揺らして笑い、「いいや。…君が、大切な誰かとその素敵な贈り物を分かち合えますように」と目の皺を深めて阿澄のすっぽりとくるまったフードの上に大きな手を置いた。藍渙に撫でられる時とは違い、大きく力強い手のひらにほんの少し身がすくむ。


 もういくよ、と貰った紐を引き連れて阿澄が立ち去ろうとすると、改めて「メリークリスマス」と、今度は深く穏やかな声が小さな背中を見送ってくれた。




 +



 小さなお供ができた。

 紐の先で空中をゆらゆらと揺れている玉を引っ張ったり逆に引っ張られたり、じゃれるようにふわふわと遊びながら歩いているうちにしばらく夢中になって彷徨ってしまった。昼間の、それも休日の公園からはきゃあきゃあといつも以上に賑やかな声が響いてくる。道行く人は寒風に身を縮こまらせながらも隣の誰かと笑いあい、街の浮ついた空気に混じって楽しげに過ぎ去っていく。

 あそんでいる場合ではなかったと、はたと現実にかえって足を止めると家の前の一本道からはだいぶ離れてきてしまったようだ。


 藍渙をどこに探しに行くべきか、ぽつんと途方に暮れて立ち尽くしていると、突如びゅうびゅうととりわけ強い透き通った風が頬を切るように吹きつけた。

 「うわ、わ、…あっ!」

 思わず握っていた紐を手放す。すると吹き荒れた風に乗って玉は空高くへと踊りだしていく。するりと抜け出した紐はもう阿澄の短い腕では届かない。

 「おっと」

 誰かの手が後ろからぬっと伸びてきて、阿澄の手から飛び出していった紐を引き止めた。

 ぴく、と体が反応する。――――この声は。

 我慢できずに本能のままばっと振り返ると、たった今逃してしまった紐を捕まえた藍渙が紙袋を抱えて立っていた。男に遮られて冷たい風はぱたりと阿澄の眼前から姿を消す。見慣れたチェスターコートに身を包んだ男は「危なかったね」と阿澄を見下ろした。


 朝見たばかりのはずの顔に、何日も離れていたような久しさをおぼえる。よかった、ちゃんとみつかった。いつもと違う様子はないか、じ…と表情を伺ってみたが、とろりと溶けるような穏やかな琥珀色の瞳は記憶のなかのそれと変わらない。

 安心したのも束の間、藍渙がまじまじと阿澄の全身を眺めていることに気付き、あっにんげんのふく、と胸がどきりと音をたてた。勝手に本人のものを持ち出したのだ、やたらと見覚えのある服を身に着けた阿澄を訝しく思っているにちがいない。

 「………君、」

 「…! その、これは、」

 「こんな季節に裸足なんて!」

 へ、と答える間もなく藍渙はしゃがみこみ、色が抜け落ちて白くかじかんだ阿澄の素足とサンダルで擦れた皮膚をみると「痛いだろうに」と呟いた。つられて阿澄も自分の足を覗き込む。知らない間に足の甲の薄皮が向けて赤紫色になっている。あまりにも寒いので感覚が鈍って気が付かなかったが、いざ自覚するとじわ…と滲むような痛みが顔を出す。

 「歩くのも大変だろう」

 「あ……うん……」

 「………そうだ、ちょうどいいものがある」

 藍渙は抱えていた紙袋の取っ手を自身の手首にかけ、阿澄に先程捕まえた風船を握らせると「ちょっとごめんね」と一言詫びる。そして阿澄のほんのりあたたかい脇の下に腕を差し入れると、そのままよいしょと抱き上げた。

 「うわ…!」

 ぶかぶかのサンダルが脱げて地面に取り残される。

 唐突に目線が高くなり、自分の重みで落ちてしまうのではないかと阿澄は一瞬身をかたくするが、見慣れた藍渙の肩口にいつものように手と顎を乗せてみると、さもこれが正しいあり方だとでもいうようにしっくりとくる。自分の顔の隣からぐっと強く流れてくる藍渙の匂いも、いつもと同じだ。はふ、と安心したように小さく息をつくと、落ちたサンダルを拾いながら擽ったそうに男が喉の奥で笑う気配がした。


 藍渙に抱きかかえられ、ゆらりゆらりと運ばれていく。

 阿澄はじっと黙って男の肩にぺたりと片頬をつけたまま、ちびでよかったな、と考えていた。大男だったらこんな風にはしてもらえなかった。七、八歳ぐらいの子供を抱えた四十手前の男の絵面は、どこにでもある光景の一つとして街に溶け込んでいく。ゆったりとテンポよく揺られる振動と一人分の足音は、浮ついた街の雑踏の中でふたりを取り囲む境界線だ。

時々抱え直されるときにテンポが乱れてふわりと体が浮く。

 藍渙に押し付けた片耳の奥ではどくんどくんと自分の鼓動の音が聞こえる。ちら、と藍渙の顔を見るとスッと伸びたシャープな顎のラインの少し上に、赤い三本傷が生々しく主張していた。


 微睡むようなひとときは、つい今しがた通り過ぎてきたばかりの公園のベンチに到着すると終わりを告げた。ほんの数分の移動が夢心地だ。

 ベンチに積もった雪を軽く払って阿澄を座らせると、藍渙は腕からぶら下げていた紙袋の封を切って中身を取り出し始める。

 「何かに導かれたみたいにぴったりのものがあるんだ」

 「?」 

 赤や緑の包装紙で綺麗に包装された袋が一枚ずつ剥かれていく。

 中から出てきたのは黒くもこもことした縦長の布地だった。履き口に顔のようなものと三角形のひだが二つついていて、中が長細い空洞になっている。――――黒猫の靴下だ!

 藍渙は小さな紙のタグでまとめられたそれをばらばらにすると、阿澄の目の前にしゃがんで芯から凍った素足にそっと履かせる。少し大きいようだが、足を柔らかくくるまれる初めての感覚にちょっとした感動を覚えてしまう。指先をむにむにと動かすとふわふわの生地にくすぐられて気持ちいい。描かれた猫の顔は目つきがやや悪く、むす、としている。

 「うちにね、黒猫がいるんだ」

 「!」

 おれのことだ、と背筋がのびる。

 「こんな風にふわふわした手触りですごく可愛い子で…しょっちゅうわたしの靴下を咥えてどこかに持っていってしまってね」

 おれのことだ…と背筋が丸くなる。

 だって仕方がない、ちらちらと動く足先から靴下を捕まえて剥ぎ取るのはとても楽しいのだ。藍渙の匂いが染み付いて、遊ぶのにちょうどいい大きさと安心感。しかも毎日、昨日とは違う新手の靴下が藍渙の足元に現れるのだから。

 気にも留めていなかったことだったが、本当は藍渙を困らせていたのかもしれない。やっぱりおれはいいこじゃない…。

 「さっき買い物中にこれを見かけて、うちの子だ! と思ってつい衝動買いしてしまったんだけど……ちょうどよかった」

 君にあげる。そう同じ高さの目線で微笑まれ、本当は自分がその靴下泥棒の犯人ですとも言い出せずに阿澄は俯いた。

 「……そのけが」

 「ん?」

 「………それ、ねこにやられたんだろ…くつしたかくしたり、ひっかいたりするねこのこと、お、おこってないのか…?」

 藍渙を探しに外へ出たのはそれを確認するためだ。はからずも自分の話題がでたので不安でいっぱいになりながらおそるおそる尋ねてみる。

 「ああ、これは…今朝わたしが浮かれて構いすぎたんだ」

 怒っているのはあの子のほうだろうね、と藍渙は頬の傷に触れると思い出し笑いをするように笑みを深めて目線を落とした。視線の先では、阿澄の足を包む合成繊維の黒猫が目つき悪く見つめ返している。


 「うちの子は数ヶ月前に来たばかりで、そうだな…人間でいうとちょうど君ぐらいの年齢かもしれない」

  阿澄はじっと藍渙の頬の傷に釘付けになっていた。確かに自分は怒ったけどこんなつもりではなかったのだ。

 「今朝起きたら初めてわたしのお腹の上であの子が寝ていて、まるでクリスマスプレゼントみたいだなって…特別な贈り物みたいで嬉しくなってしまった」

 二十五日の朝にプレゼントを見つけた子供のように顔を綻ばせて藍渙は話す。笑うと頬の傷がすこし曲がって歪になる。いたそうだ、と阿澄は傷を気にしながらも、今しがた言われた言葉を反芻していた。

 「…おくりもの? ねこはねてただけなのに、うれしいのか?」

 「そこに一緒にいてくれるだけで幸せなんだよ」

 阿澄の中でなにかがじわ、と滲んだ気がした。初めて触った雪が指の上で融けていったように。けれど胸の中に広がるそれは雪と違ってほわほわとあたたかい。


 それがどういう気持ちなのかを的確に言葉にすることは阿澄には難しいことだったが、藍渙がこのあたたかさを幸せと呼んでくれるというのなら、この男とずっと一緒にいようと思った。明日も明後日もその先もずっと藍渙のそばで眠ろう。いつかいのちが終わる、その日まで。いいや、終わったあともきっと。


 「…おれも……」

 そこまで言いかけて、続きの言葉を今の姿の自分で言うのはちょっと違うなと阿澄は口を噤んだ。見知らぬどこかの子供に言われたと思って欲しくない。今朝目を覚ました藍渙と一緒にいたのは、ほんとうのおれだ。


 何かを言いかけた阿澄を不思議そうに藍渙が見ている。おれはおまえのあーちょんだ、と話してみようかとも思ったが、それを証明するものはない。自分でもどうしてこんなことになっているのか分からないのだ。

 どうやってこの気持ちを返そうか。しばらく考えてから唇をぎゅ、と引き結ぶと代わりに身を乗り出し、しゃがんでいる藍渙の頬に――三本の引っかき傷に向かって黒猫がいつもしているように、赤くなった鼻先をちょんとつけて離れたのだった。

 「!」

 弾かれたように驚いた藍渙が目を見開いてこちらを見ている。今触れたばかりの冷たい鼻先にも胸の内と同じあたたかさが宿っていた。もっと触れたら、もっとあたたかくなるのだろうか?


 猫の時にはいつもしている挨拶なのに、急に恥ずかしくなっていたたまれなくなる。阿澄は勢いよく立ち上がると、置かれていたサンダルに足をずぼずぼ差し込んで「おれ、いえにかえる!」と走り出した。背中のほうから慌てたような藍渙の声が聞こえたが、振り返らずにばたんばたんとうるさい音をたてながら駆け抜ける。澄み渡った冬風を顔に浴びているのに、なぜか火照っている気がする。引き連れている紐と浮いた玉がなかなかついてきてくれない。はやく来いってば。


 来た時はふらふらと不安な寄り道ばかりだったのに、帰りは周囲に目もくれずに一目散に走った。冒険の目的は達成した。藍渙は怒っていなかった。あとは藍渙よりも早く家に着いて、何もなかった風に服を返して、それからねこに――――ねこにどうやってもどるって?


 重要なことに気付いてしまい、阿澄はついぶかぶかのサンダルのことを忘れて縁石を飛び越えようとした。考えごとの真っ最中だったので、人間のかたちを忘れてうっかり前足を踏み出そうと、つまり両手を開いて前に大きく出し、握っていた紐を再び空の彼方へと逃してしまう。あ、出す足まちがえた、と思う間もなく、上がらなかった両足は縁石につまずいて転んだのだった。

 「うわっ あっ゛いだっ!」

 幸い、ふかふかと積もった雪の中に顔面を突っ込んで倒れ込んだ。なんだか朝も同じようなことがあった気がする。そうだ、ベッドから落ちたのだった。おれはなんてどんくさいねこなんだ。

 体を冷たい雪が取り囲んで急速に顔の火照りが引いていく。早く帰らないといけないのにどんどん体温が奪われて、パーカーもマフラーも凍りついたように冷え切っていく。起き上がろうとしても手足がうまく動かない。早く帰らないと彼が心配する。ねこに戻ったら顔の傷を舐めて、一緒にいてやらないと。赤い毛むくじゃらも言ってた、今日はクリスマスだから素敵な贈り物を誰かと一緒にって。しゃちょー…らんふぁん、…藍渙……おれ、ちゃんとそこに帰るからな――――――――…





 +++





 何の前触れもなくすう、と意識が覚醒した。

 ぼんやりと薄目をあけて飛び込んできた一面の眩しい白を見ながら、雪ってこんなにあたたかかったっけ…と考える。頭の隅に引っかかった違和感をうやむやにするか、起きて確かめるか、中途半端な眠気の中で葛藤する。白くて明るい、けれど暖かい。

 こんなに平穏に惰眠を貪っている場合ではなかったはずだ。しばらくそうして微睡んでいたが、次第にはっきりしてくると、早く帰らないといけないんだった! と阿澄はがばりと起き上がった。

 「……………」

 そこは倒れ込んだ冷えた雪の地面でもなんでもなく、あまりにも見慣れた真白いベッドシーツの上だった。拍子抜けするほどいつもの寝室の光景だ。日はすっかり高くのぼって、窓から明るい光が差し込んで部屋が暖まっている。

 阿澄はのそ…と起き上がるとベッドから降りようと前足を――――嫌な思い出がよみがえって慎重に――――差し出してそろりと床に降り立った。そこで前足と後ろ足が両方床についた感触がして、自分が慣れた四本足の姿をしていることに気がつく。いつの間に家に戻ってきたのだろう。家主は帰ってきているのだろうか。


 ハンガーラックには何もかかっていなかった。その代わり床に白いマフラーがひとつ、落ちている。着ていたはずの藍渙の大きな服は見当たらない。


 (ゆめ? ねぼけてたか?)


 なにか壮大な夢を見ていたのかもしれない。阿澄が小さな首をかしげていると、部屋の外からガチャガチャと音が聞こえたのち、「ただいま」と聞き慣れた声が玄関のほうで響くのが聞こえた。急いで寝室をでて見に行くと、チェスターコートを纏った藍渙が紙袋を抱えて靴を脱いでいるところだった。

 「起きてたの。お腹が空いたでしょう」

 すぐに準備するよと室内へあがった藍渙の足元をぐるぐるとうろつきながらついていく。言われてみれば今日は何も食べていない。もう昼前だ。

 クリスマスプレゼントだよ、と紙袋から姿を覗かせたちゅーるの箱に、阿澄の意識は一瞬でそちらへともっていかれる。



 ゆめでもほんとでも、まあいいか。

 


 コートを脱いで手を洗ってきた藍渙がご飯にしよう、と袖をまくりながら台所に立ったので、ナァ、と機嫌よく返事をする。すると藍渙がまた話しかけてくるので、ナァナァとおしゃべりに付き合う。

 そういえば、引っかいてしまった傷はどうなのだろうとそろそろと顔を見てみると、三本の爪痕が赤く主張している。外が寒かったせいもあるのだろう、余計にいたたまれない気持ちが強くなる。

 今日は土曜日だから、彼は家でゆっくり過ごせるはずだ。あとでいっぱい傷を舐めてやろう。それで少しだけなら窓から一緒に雪を眺めてもいい。そうやって傍にいるだけのなんでもないことが、この人間にとっては幸せなのだと分かったから。

 


 こうして一人と一匹へのささやかなクリスマスプレゼントは、ひとときの奇跡を煌めかせたのち、夢の彼方へと大切にしまいこまれていった。

 玄関では隅に置かれたクロックスサンダルが台所から響いてくる楽しげなおしゃべりの声を聞きながら、何故かそこかしこにくっついた雪をじんわり惜しむように、やさしく融かしていた。




あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。