小話


 猫が鰹節を好むというのは、一体誰が言い出したことなのか。


 久しぶりに、子供の頃から買い物に通っていた近所の商店で揚げ出し豆腐を購入して帰った。時間がたって温め直しても衣がサクサクと軽く、中から優しい絹ごしがとろけて口の中にひろがるそれは藍渙の好物の一つだ。しばらくぶりだったので他にも何点か買い置きのできるものを購入して、長年顔馴染みのレジのおばさんに猫を飼い始めた話をすると、まるで藍渙に子が生まれたのかのように破顔して喜んだ彼女はあれもこれもとオマケをつけてくれた。


 早速買ってきたそれを食卓に並べ、それではと箸を手に取る。温めたばかりの惣菜達が湯気を立てて優しい香りで迎えてくれる。

 自分の豆皿に顔を突っ込んで食事をしていたはずの阿澄が、いつのまにか足元にやってきてナァンと話しかけてきた。軽やかに藍渙の膝の上に飛び乗りじっと見てくる。いつもは藍渙が回収するまで空になった豆皿を舐め続けているのに珍しい。これは何か要求があるときの態度だ。


 ちょうど温かい豆腐を口に入れたばかりだったので、目線だけどうしたの、と向けると阿澄は鼻先をふんふんと鳴らしたのち、唐突に伸び上がってべろりと藍渙の口元を舐めた。

 「!」

 咄嗟のことに反応できずに固まっていると、阿澄は何度か舌なめずりをして今度は卓上に鼻先を向ける。目線の先には――――たった今藍渙が食べた、揚げ出し豆腐。

 あっ鰹節、と気付くのに時間はかからなかった。揚げ出汁豆腐には擦りたての大根おろしと、おばさんがつけてくれた鰹節が目一杯のっている。湯気にのって漂った香りはさぞ阿澄を誘惑したに違いない。

 さては口元についていた鰹節を舐め取ったんだな、と急いで卓上の皿を遠くへどけて阿澄を片手でつかまえる。行儀の悪い子はこうだよ、と自分のシャツの裾をめくって黒い毛玉を中に入れしまいこむと、阿澄はしばらくばたばたと暴れてからなんとか這い出して、転がるように藍渙の膝から降りていった。



 





 ――――猫に鰹節。

 まだ拾ったばかりの頃、なんとなくで鰹節を与えたことがあった。大喜びで食べていたので好物なのだろう。


 鰹節自体は少量なら与えてもいいとされている。ただし人間と同じものでは塩分が多いので、減塩処理がされた猫のおやつ用が望ましい。或いは人間のものを十分に薄めて与えている人もいてレシピが公開されていた。インターネットとは本当に便利なものだ。

 鰹節で出汁でもとってあげようか。最低限の自炊しかしてこなかった藍渙は、出汁をとるといえばパックで売られているものか、鍋に昆布を沈めるぐらいの経験しかない。スマホとにらみ合いながら台所へ向かう。

 思えばおばさんはやたらと鰹節を多く入れてくれた。もしかすると、阿澄のためだったのかもしれない。


 阿澄がこの家にきてから、鍋やフライパンを握ることが本当に多くなった。それまで調理器具は一通りあっても使う頻度が少なく、台所の見栄えをそれらしくしているだけだった。最近では保存用のタッパーやラップを買い足すようになり、生活感が増してきている。


 雪平鍋に湯を沸かし、貰った鰹節のパックを一つあける。三分ほどおいてからキッチンペーパーで濾せば、鰹節の一番だしがとれるようだ。

 一番だしは、香りがつよく豊潤な味わいと美しい琥珀色が特徴だ。藍渙は正直なところ二番だしとの使い分け方はよく分からなかったが、香りが強いほうが阿澄にはきっといいのだろうとそれ以上は調べなかった。

 濾す時にもったいないのでキッチンペーパーを搾ろうとしたが、ご丁寧にスマホに表示されたレシピには「えぐみが出るので搾らないこと」と注意書きがされていた。同じことを考える輩が多いのだろう。


 とれた出汁に水を加えて三倍程度に薄め、ほどよくぬるくなったそれをスプーン二杯分掬って阿澄の皿にこぼすと、残りは普段麦茶を入れるのに使っていたポットに入れた。十分な量があるのでしばらくなにかに使えそうだ。そのまま混ぜるだけではなく、片栗粉でとろみをつけて普段のフードと混ぜると、冬でも猫に水分をとらせやすいらしい。先日雑貨屋でつい買ってしまった黒猫のシールを麦茶のポットに貼ると、阿澄用の目印のついたそれを冷蔵庫にしまった。


 残った出汁がらは、ふりかけにするつもりだ。少しつまんで食べてみると、塩気は何もないが香りは残っている。冷蔵庫に残っていた人参を出汁がらとまとめて適当に刻み、電子レンジにかけてから小さなフライパンで炒って水気をとばした。油をひかないので油断をするとすぐに焦げつく。

 ひとつまみ分は阿澄の皿へ、残りには自分用として醤油と砂糖、ごま油を雑に加えて更に一分ほど炒めれば立派なおかかの完成だ。鰹節の濃厚な香りにごま油の深みが合わさり、香ばしさが一層鼻を擽る。


 「ふう………」

 出汁ひとつでもあれこれ考えると案外手間がかかるものだ。

 飼い主が台所で何やらやっているらしいと、いつの間にか阿澄も少し離れたところでそわそわと藍渙を見ている。香りにつられておねだりしにきたのかもしれない。


 楽しくなって白胡麻を数粒散らすと、まるで料亭の前菜のような慎ましさを感じる気がする。なんだか特別料理が上手な人間になったような気がして、使った器具を放置したまま藍渙は阿澄に豆皿を差し出す。

 「阿澄おいで。これは食べてもいいよ、いい匂いでしょう」

 喜ぶところが見たくてしゃがみこむと阿澄は藍渙の元へ駆け寄ってくる。猫に鰹節。ちゅーるを越える食いつきをみせるかもしれない。

 期待しながら見ていると、阿澄は豆皿の匂いをしばらくかいでから藍渙の顔をみて、先程のようにまた伸び上がりべろりと顔を舐めてきた。

  「! ふふ、もうわたしには鰹節はついてないから」

 こっちこっち、と皿を見せても阿澄は少し目線をやるだけで藍渙のことばかり見ている。汁をほんの少し舐めたが、肝心の鰹節には全く口をつけなかった。

 やがて藍渙の膝に小さな手をついて立ち上がると、ナン…と鳴いてフンフン鼻先を近づけてくる。鰹節になどまるで興味がない。なあに、と顔を近づけるとあたたかい鼻息とヒゲがふわふわと肌を撫でてくすぐったい。


 阿澄はそのまま藍渙の口端にちょん、と鼻先をつけると、まるでおやすみとでも言うようにもう一度鳴いてから、満足げに寝室へとゆっくりと去っていった。




 「…………………えっ食べないの?」

 残されたのは、使い終わった器具で散らかった調理台と、手つかずで冷めていく豆皿。

 いつだって猫は自由気ままに生きている。猫が鰹節を好むというのは、一体誰が言い出したことなのか。

 台所いっぱいに広がった濃厚で芳醇な旨味の香りだけが、しゃがみこんだ人間の背中をやさしく慰めていた。



あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。