藍渙は阿澄に、毎日少しずつ首輪に慣れさせる訓練を始めた。先日の脱走劇からまもなくのことだ。
阿澄が帰ってきてからすぐにマイクロチップを埋め込んでもらったが、迷子を追跡する機能はない。万が一の時のために、やはり首輪をつけるしかないと心を鬼にした。一ヶ月近くケージに結ばれて飾りとなっていた絹の首輪をもう一度手にとったのは、十一月も半ばに差しかかった頃だった。
多少嫌われる覚悟でちゅーるをご褒美にしながら訓練を始めたところ、徐々に慣れるものなのか、一週間程度で首輪を気にせずに過ごせるようになった。何度か嫌がられて阿澄が近づいてくれなくなったが、めげずに機嫌をとっているうちに首輪のことはどうでもよくなったようだ。それでもまだ、時々器用に自分で外して床に放り出しているが、自ら咥えて持ってくることもあるので「付けたらご褒美におやつが貰える紐」ぐらいに認識したのかもしれない。仔猫の順応力には驚かされる日々だ。
その日の阿澄はすこぶる機嫌が悪かった。
朝、いつも通りの時刻に目が覚めると阿澄の姿がない。こんなに冷える朝なのに布団の中に潜っていないのはおかしいと思い、慌てて探すと冷たい玄関で藍渙の革靴を齧っていた。
「おはよう、早起きして悪戯かい」
片方の靴の中から阿澄を拾う。フス、と機嫌の悪そうな鼻息が生暖かい。齧られた革靴はぽつぽつと可哀想な噛み跡が残っていたが、靴の中にすっぽりとおさまっていた阿澄は可愛かったので、これはこれで良しとした。
玄関ですっかり冷えてしまった黒猫を床暖房の上に置いてあげようとリビングに連れていくと、テーブルやソファの足があちこちぼろぼろになっている。木くずやちぎれた皮と飛び出した糸が散乱していた。床の上にはおもちゃの数々と何枚も引き出されたティッシュがひどい有様で助けを求めている。
「これは……」
腕の中の黒猫を見る。これは早起きどころか、夜中の間に相当暴れたようだ。藍渙の入浴中に、おれも入れろとばかりに浴室の扉をバリバリと引っ掻くことは多いが、家具に手を出すような悪戯は珍しい。おれしらない、と阿澄は腕の中から降りていった。
具合でも悪いのかと思って見ていても、食欲や排泄はいつもと変わりない。しばらくすると藍渙の膝の上にのぼってきたので機嫌が直ったかなと思いきや、突然指をがぶがぶと甘噛みされた。そこそこ痛い。痛いよ、と指を引くと不満げに鼻を鳴らして膝から降りていってしまう。
阿澄が一番気に入っているヘビの猫じゃらしは、先日二代目に買い替えたにも関わらずもう無残にあちこち綿が飛び出していた。ここのところずっと、ひとりで咥えて振り回して遊んでいたので、可哀想なヘビはいつも阿澄のよだれにまみれていた。吊紐がちぎられ布が裂けたおもちゃは、このままでは綿や糸くずを飲み込んでしまいそうだ。
部屋の隅に転がっていたそれを、儚い命だったなと捨てようとすると、目ざとく見つけた阿澄が追いかけてきて興奮のままに藍渙の足に噛みつこうとした。
「! 痛い痛い」
痛がる振りをして足を引く。本当はそれほど痛くないが、噛み癖をつけないためには人を噛んではいけないことを教えないといけない。
阿澄は再び足に飛びかかってきて今度はズボンの裾を齧って頭を振る。興奮している阿澄をこら、と引き剥がし、大げさに離れてわざと無視を貫いていると、じゃれついていた黒猫はやがてこれでは相手にしてもらえないと覚えたのか大人しくなった。
「…また買ってあげるから、」
…可愛いあの子を無視し続けることが耐えられない。藍渙は阿澄のほうを向き直っておいで、と呼んだ。少し離れたところで静かになった阿澄は床の一点を見たまま動かない。
しょげているように見えてしまい、藍渙の心は罪悪感でいっぱいになる。怒ってないよ、と近寄ると、阿澄の足元に小さな白いものが落ちている。
拾い上げると尖ったそれは一センチほどにも満たない大きさで、乾燥した米粒のような見た目をしていた。
「………………………これは………歯?」
阿澄は藍渙の手元をしばらくじっ、と見つめたあと、ふいとどこかに行ってしまった。
念の為すぐに病院に連れていくと、やはりそれは阿澄の乳歯だった。
猫は人と違って、永久歯が乳歯を押し出すようにして生え変わるので、この時期は口の中の不快感から悪戯を繰り返したり噛み癖がつくそうだ。三ヶ月ほどで全て生え変わるので、その間は噛んでもいいおもちゃを十分に与えておくように言われた。
普通は食事の際に抜けた歯を飲み込んでしまうことが多く、発見できるのはラッキーなことらしい。阿澄がくれた幸運のお守りだ。
藍渙は帰りがけに、三代目のヘビと木製の小箱を購入した。
家につくと阿澄はもう何事も無かったかのように落ち着いていた。抜けかけていた歯が無くなってすっきりしたのだろう。藍渙や辺りのものに噛みつく素振りはなく、真新しいヘビのおもちゃを味わっている。
たったの三ヶ月だ。春が来る前にはもう、全ておとなの歯に変わってしまう。 手のひらの上にはほんの数ミリの子猫の欠片が横たわっている。それをなくさないように買ってきたばかりの小箱の中に大切にいれる。
一日一日が過ぎるごとに阿澄はこどもではなくなっていく。
今日垣間見た悪戯は、子猫の阿澄が剥がれ落ちていく瞬間だった。藍渙が相手をしなくてもひとりで遊んでいられる。首輪を着けていられるようになった。歯が全て生え変わる頃には成猫用のフードに変わるだろう、そうなれば留守番もできるようになる。
成長の喜びの後ろを、ほんの少しの寂しさがついてくる。もう少しだけ子猫のままでもいいのに。
小箱の蓋をとじると、藍渙の寂しいこころも一緒にしまわれた気がした。
「…阿澄」
よだれだらけのヘビの横にそっと手を差し出す。
阿澄は差し出された指先を見つめると鼻先でやさしく押し返しただけで、期待したような甘噛みをすることはなかった。
※「春にして君を離れ」原題: Absent in the Spring :アガサ・クリスティー(著),中村 妙子 (訳)
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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