「……と、いう夢なんですけれどもね」
「常々言おうと思っていたんだが、貴方は本当に趣味が悪いな」
藍曦臣は、久方ぶりに訪れた蓮花塢の臥室で江澄の髪を梳かしながら、ここ最近みている奇妙な夢について説明をしていた。
十一月の蓮花塢は雲深不知処と比べれば幾分か暖かいとはいえ、夜半ともなると校服のみでは染み入るような寒さが肌を撫でる。
江澄の恋人は普段は見かけない厚手の上衣と襟巻きを羽織って、まもなく日付が変わろうかという時刻に蓮花塢の夜空に皓月のごとく現れた。十一月五日だ。曰く、「あなたの生日ですから飛んできました」と言葉の通り御剣で飛んできたのだった。私的な逢瀬は、真夏の入道雲に隠れて二人でいっときの避暑を楽しんで以来なので、三个月ぶりだろうか。
文も寄越さず押し掛けたことに小言の一つでも飛ぶところだったが、江澄はわずかに眉間に皺を寄せただけだった。「冷えているだろうから早く中に入れ」と藍曦臣のかじかんだ指先を暖めるように握って臥室へと手を引くと、有無を言わさず沐浴へと放り込んだ。
肌を重ねるような関係になってから初めての生日だ。
江澄がこの世に生まれ落ちた日、最初に彼の世界に現れるのは自分でありたい。その思いのために藍曦臣は前々から雲心不知処中に不在を宣言していた。
宗主としての政務に支障は来すことは江澄が嫌う行為であったので、一通りのことを終えてから、なんとか当日になってしまう前に蓮花塢を目指した。一人風呂桶へと押し込められている間に日付が変わってしまいそうだったので、ならば一緒にと江澄も沐浴に連れ込み存分に暖めあう。
湯冷めしないようにと江澄から渡された夜着は彼の香りが染みこんでいて、着ているだけで藍曦臣を誘惑する。他人に髪など触らせない男が、自身の腕の中で頭を預けてくれることに得も知れぬ快感を覚えながら、藍曦臣はさらさらと江澄の髪を繕っていた。
しばらく前から不思議な夢ばかりを見ていた。なにやら奇妙な世界で、自分と同じ顔をした男が黒猫を「阿澄」と呼んで可愛がっている。この猫がまた自分の恋人によく似ていじらしい。自分達とは無関係と思えず、次に江澄に会ったら話そうと決めていたのだ。
「夢を見るたびに話が続いているんだ。猫のあなたも大きくなっていてね。何か怪の類かとも思ったけど、体に害もないし、寝ている間もあなたと一緒に居られる気分だったからそのままにしてしまった」
「…獣の俺が貴方に食事や排泄の世話をされるなど想像もしたくない。俺にそんなことがしたいのか?」
「そうだねえ………」
江澄の黒髪を一房手の内に掬い取りながら、藍曦臣は思案した。あの子の柔らかい毛並みによく似た色だ。
…眦の上がった美しい瞳の恋人を「阿澄」と優しく呼んで、膝の上に座らせるところを妄想する。夢の中の男もよく黒猫を膝にのせていた。よく鍛えられた滑らかな腹をそっと撫でてやりながら首元に鼻先を寄せて可愛いねと声をかけると、想像上の彼はそっぽを向いてしまう。代わりに本心を雄弁に語るのは赤くなった耳。食事は手ずから与えてあげたい。彼の暖かな舌は猫のそれよりもなめらかで、時々挑発するように己の指の股をべろりと舐めるだろう。そうしたらその舌を捕まえて、いたずらの仕返しに敏感な裏側をくすぐるのだ。彼が催しそうな時には「ここではいけないよ」と優しく耳元で囁いて制し、きちんと我慢することができれば存分に褒めてあげよう。それから、それから――そうだ、あの黒猫の阿澄は沐浴が好きでいつも一緒に入れてくれとねだっていた。のぼせてしまわないように気をつけながら、すみずみまで綺麗に洗ってあげればきっと満足げに目元を緩ませてくれる。そして濡れた身体で寒そうに身震いするのを、柔らかい綿布で綺麗に拭いてやり、抱き上げて己の牀榻に連れていく――――――――――。
したい。是非とも。
藍曦臣は己の妄想にたっぷりのめりこんだのち、声もなくうなずいた。
牀榻に連れ込んだ彼の首に己の抹額をやさしく結わえて、阿澄と呼び存分に口付けたい。白皙のうなじに己の抹額はさぞ映えることだろう。今の時期ならば首元に立襟のついた内衣を着せれば、外からは見えないはずだ。服の下に己がつけた首輪を隠したまま、宗主として怜悧に振る舞う姿を想像し、藍曦臣は肚の底がぞわりと音を立てるのを感じた。
しかし動物のように首輪をかけるなど、矜持の高い彼が激高することは目に見えていたので口を噤む。思えば夢の中の男も、首輪をかけようとして黒猫に激怒されていた。
あの黒猫の怒りようが江澄によく似ていたのでくつくつと思い出し笑いをしていると、江澄は機嫌を損ねたように藍曦臣を睨みつけた。
「そんなに気に入るほど慰みに猫を飼いたいのならとっとと姑蘇に帰れ」
「ごめんなさい阿澄、そうじゃないんです。猫を飼いたいんじゃなくて、あなたとずっと一緒にいたいあまりそんな夢を見たのかなってだけだよ」
「はは、それで最後に猫の俺に逃げられる夢か。現実でも逃げられないように気をつけるんだな」
――そんなこと考えたくもない。
夢の中ですら、手元から居なくなった阿澄に心が冷えきった思いをしたのに。
手遊びしていた髪をそっとおろすと、逃さないと言わんばかりに江澄の顔をこちらに向かせて唇を寄せる。すると江澄は唇が触れる直前にするりと抜け出し、藍曦臣の手を引いて牀榻に乱雑に突き飛ばすと腹の上に跨ってじっと藍曦臣を見つめた。
自分の上に乗ってこちらを見る姿が、やはりあの可愛い黒猫に似ているように思えてならない。
「今日貴方は何をしに蓮花塢へきた?」
「勿論、あなたの生誕を祝って、感謝と愛を捧げに」
「…ならばさっさと存分に努めることだ」
ええ、あなたの望むままに。
そう答えようとした藍曦臣の言葉はまるごと江澄に呑み込まれた。江澄から口付けられることは珍しい。
そのまま江澄は角度を変えると唇を離さずに「藍渙」と囁いた。掠れた声と空気が藍曦臣の唇を愛撫する。
「獣ではこんな風に呼んでやることもできないが、それでも貴方は俺よりその愛玩動物がいいと?」
不機嫌そうな口調に怒らせたかな、と思い澄んだ瞳を見つめると、江澄の目元はわずかに赤い。
黒猫へのわずかな嫉妬と、拗ねたような物言いへの羞恥心を読み取った藍曦臣は、たまらず腹の上に跨っている江澄を両腕で抱え一息に体勢を入れ替えた。真白い褥単の上に先程梳いてあげたばかりの真っ直ぐな黒髪が散り、男の身体の下に江澄の身体はまるごと捕らえられる。無防備に組み敷かれた恋人の姿に藍曦臣は一層興奮し、そのまま噛みついてしまいたい衝動を息を呑んで堪らえた。
牀榻の上に縫い付けられた江澄は藍曦臣の目の色をみて「どっちが獣だ」と声を殺して笑っていた。笑うとほんの少しだけ眦に小さな皺が寄ることを知っているのは自分以外に何人いるだろうか。
「あなたが人間で良かった。夢の中のわたしはあの子とこんな事はできないのだから」
「…………………そうだな」
何かを考えるようにたっぷり間を置いてから、江澄は小さく肯定して己を組み敷く男をぐい、と引き寄せた。
+
江澄には、藍曦臣の語る妄言のような夢に心当たりがあった。
一月ほど前、巴稜――雲夢の南西にある辺境の村で邪祟が出現し人が惑わされるという報せが入ってきた。急ぎ門弟を集めて駆けつけてみると、それは仙狸の妖であった。
仙狸とは、元は山猫であったものが年を重ねて神通力を身に着け、人に化けて精気を吸うようになったものをいう。精気を吸われた人間は肝気鬱結を来し何者にも興味を示すことができなくなり、廃人のように塞ぎ込む。酷いものになると起き上がることもできずに気の疏泄が失われていき、やがて食事も摂らずに死んでいく。
被害が大きいので江澄は門弟に後方支援を申し付けると自ら討伐に乗り出したが、捜索した期間も合わせると蓮花塢に戻った頃には出立してから十日はかかってしまった。
こんな騒ぎがなければ本当は、密かに雲深不知処を訪れようかと思っていた。十月の初めは姑蘇藍氏宗主の、己が恋人の生日だったから。されど雲夢に生きる民の生活が脅かされているのなら、どちらを優先すべきか考えるまでもなかった。江澄にとって雲夢はすべてだ。
せめて文ぐらい送ってやろうかとも考えがよぎったが、沢蕪君の生誕日ともなればどの仙門も祝辞を贈り今頃てんやわんやの騒ぎだろう。自分の文で時間をとらせるのも忍びないからと、江澄はそのまま恋人の生日を何事もなかったかのように流してしまった。またいずれ機会はあるだろう、と。
巴陵を騒がせている妖は、先頭に立った江澄の前に、藍曦臣の姿で現れた。
無論気配は全く違うので騙されることはないが、これは心を読む高等な類の邪祟だと瞬時に警戒した。背後の門弟達からは突如現れた沢蕪君への動揺が伝わってくる。「動じるな、まやかしだ」一言ぴしゃりと恫喝する。雑魚ではないが、己の敵ではない。恋人の姿を模したものに剣を突き立てることに躊躇いはなく、寧ろ出来の悪い贋作を自分の目に晒すなと、会いにいけなかった苛立ちをぶつけるように斬って捨てた。
「ふん、俺の予定を狂わせたにしては小物だったな」
どんな凶悪な本体がでてくるのかと思えば、江澄が見下ろした先にいたのは、幻のほどけた一匹の小さな黒猫だった。首に擦り切れて今にも崩れ落ちそうな紐がついている。
仙狸は「妖」、つまり人ではない生物が化けている。正体は大成した山猫だと思っていた江澄は少し面食らっていた。眼前にいるのはどこの家にでもいるような小さな猫だ。
江澄は己が斬った猫をまじまじと見つめた。澱んだ気は三毒によって霧散し、もはや実体を保てなくなるのも時間の問題だろう。邪気を清め鎮めるのとは違い、散り散りになるよう文字通り叩き斬った。猫がわずかに顔をあげると首元からカラン、と錆びた鈴の音がした。尻尾の先が割れている。――――そうか、猫又が仙狸へと育ったのか。
か細い声でナア、と猫が鳴く。それはとうの昔に死んだ飼い主を探し続け、尾が割れるほどの恋しさから人の精気を吸い取る妖になった猫の最期だった。
「猫か……………」
――もしも、宗主でもなんでもない、ただの一匹の猫に生まれたのなら。
建前も責務も気にせず、自由気ままにあの男の部屋へ通い、素直に喉を鳴らしながら大きな手で撫でてもらえるだろうか。言葉にすることが苦手な自分でも、喵と一声鳴いてすりよるだけでこの気持ちが伝わるかもしれない。余計な皮肉を言わない猫ならば、厄介な性分を気負うことなく会いに行って、今頃あの男と一緒に――――――。
そんな馬鹿げたことを、消えていく小さな仙狸を横目にちらりと願ったような気がしないでもない。
+
そんな出来事のことはすっかり忘れていた。藍曦臣の夢の話を聞いて、あの時の仙狸の恨みつらみが祟っているのだろうかと不安にもなったが、心身に不調はなく邪の気配もない。藍曦臣も夢を見るだけで害はないと言っていた。
江澄に残ったのは、ただ恋人が生まれた日に会いに行ってやれなかったという申し訳無さだけだ。猫だったら会いに行けたなどと、腑抜けた気の迷いが藍曦臣におかしな夢を見せているのだとしたら、それはもしかしたらあの仙狸のささやかな仕返しなのかもしれない。
江澄は己の髪を梳く男に噛み付くように口づけると、そのまま飲み込ませるように「藍渙」と囁いた。貴方は、俺が名前も呼んでやれない獣のほうがいいのか。
そんなのは御免被るなと内心で自答すると、藍曦臣は火がついたように江澄を組み敷いて今にも食い尽くしそうな目をしながら否、と答える。己を見下ろす男のほうがよほど獣のようだ。
きっともう、この恋人はおかしな夢をみないだろう。
江澄はもう猫になりたいなどと願わない。会いたかった人には、自分の足ではなかったけれど、会うことができた。己の性分を言い訳にせず、伝わっているだろうと慢心せず、口でも、文でも、言葉を尽くして気持ちを伝えてやるべきなのだ。だって、自分達はそれができる〝人間〟なのだから。
ただ一方的に可愛がられるだけの愛玩動物ではなく、この男の隣に立ち背中を預け、愛する世界と愛する人を守れる自分として、藍渙という男の生涯を愛したい。
だから今生は、ままならない事が多くても人間でいい。人間がいい。
牀榻の脇に置かれた水時計が正子を告げる。十一月五日、人として生を受けた日。
二人の間にはもう、吐息の一つも挟まることができない。蓮花塢の優しい夜の帳の中で、二つの人影はお互いの言葉を貪るようにいつまでも重なりあっていた。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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