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 東のほうから空が徐々に薄白ばんできていた。


 十一月の夜空の闇は、焦燥と狼狽、そして黒猫が自らの足で出ていったという失意を一緒くたに隠して、一晩中藍渙を突き動かしていたが、いよいよ辺りが明るくなってくると世界に自分一人の姿が浮き彫りになり、もはやあの子は居ないのだという事実をいっそう鮮明に突きつけてきた。


 雲ひとつない美しい黎明の明け方に、藍渙は路上で一人立ちつくす。

 こんな空も一緒に見たかった。いずれあの澄んだ宝石のような瞳にこの世界のありとあらゆるものを見せて共有したいと、幸せな妄想に浮かれていた。そんなことをしなくても阿澄は自由にこの世界を駆け回れる動物なのだ。守ってあげたいなどと口にして、実際に自分がしていたことは、外の世界が見えないように大切に囲った箱庭で愛でていただけだ。だからあの子は出ていった。

 「……………」

 握りしめたままだったスマホはとっくに電源を切った。見合いの最中に景儀からの電話に気付き、席を外してそのまま忽然と姿を消したのだから、その後はずっと着信が鳴り止まなかった。この世の終わりのような声で話す景儀はただただ謝り倒して探し続けてくれたが、不思議なことに全く責める気にはならない。

 きっかけは何であれ、あの子はやはり外の世界に出ていきたかったのだ。藍渙に閉じ込められて、さぞ窮屈だっただろう。

 不意にばさばさという羽音とカラスの声が響く。思わずそちらを見ると、道の向かいで数羽のカラスがガアガアと喚きながら何か黒い塊をつついて集っている。一瞬で全身の血の気が引く。まさか、あの子では。

 藍渙は慌てて駆け寄ると、カラス達を蹴散らした。突然の乱入者に驚いたカラス達はすぐに飛び立ち、近くの電線へと騒ぎ立てながら集まる。残ったのは道端の――――――ぼろぼろの黒いゴミ袋。

 「っ……よかった…」

 思わず安堵の声が漏れる。

 あちこち擦り切れて中のゴミが散乱したそれを確認するようにじっと見つめる。食い散らかされたあの子ではない。初めて黒猫を拾った日、今にも死にそうな姿で倒れていたときのことがよぎった。弱っているし死んでしまうかもしれないなと、あの頃は他人行儀に考えていた気がする。

 カラス達は悔しそうに啼いていつの間にかいなくなっていた。息が薄白く最も冷える朝の時間に、道端で散らかったゴミを片付けながら何だかおかしくなって笑えてきてしまった。胸にぽっかりとあいた大きな穴はこれから先どうしたらいいのだろう。家に帰ってもあの子はいない。ほんの数ヶ月前の生活に戻るだけのそれが想像もできない。自分は一人でどんな風に生きていた?


 どんなに嫌われてもいいからせめて首輪をつけておけばよかった。外が恋しくても、首輪がストレスでも、藍渙のことが嫌いになって触らせてくれなくなっても、野良猫として生きていくほうが性分に合っているのだとしても。こんなことになるぐらいなら、あの家に押し込めて会社にも連れ出さず、窓のない部屋で絶対に出られないようにしておけばよかった。


 今頃阿澄はお腹をすかせていないだろうか。またぼろぼろに怪我をして行き倒れているのではないか。やはり探さないと。誰かの家の軒先で守られて食事を与えてもらえていれば安心だが、反面仄暗い気持ちが湧き上がってくる。自分ではない誰の家に行こうというのだ。



 なんて自分本位な考え方だろう。

 出ていってしまって当然だ。




+++




 空が明るんで探しやすくなったので再び一時間ほど探しまわり、気付くと家の近くまで戻ってきていた。太陽は完全に顔を出し、薄青い空が広がっている。爽快な朝の空気と裏腹に、空虚な自宅が見えるにつれて藍渙の気は重くなった。


 一晩中静かに藍渙に付き合ってくれたスマホの電源を入れる。おびただしい数の着信履歴が残っていた。後輩、叔父、部下。その三つで埋め尽くされた画面を眺めているとすぐに着信を知らせる画面に切り替わる。金光瑤だ。

 『…やっと出ましたね』

 「すみません…」

 『今どちらにいらっしゃいますか?』

 金光瑤は、事の次第を景儀から聞き出すと藍渙が行方をくらませた後の処理を完璧に済ませてくれていた。当然ながら見合いはその場で破談となり、卒倒しそうな叔父を宥めながら送り届け、残された藍渙の荷物は景儀を通じて会社に預けてくれたという。あとで各々には何か詫びの品を贈らなければなるまい。


 多大な迷惑をかけたことを詫びながら歩いていると、あの子のいない家への道のりも少しは気が楽だった。

 貴方がこんなことをするのは珍しいから、余程のことですよと金光瑤は落ち着いた口調で言う。その通りだった。何でも卒なくこなしてきた人生で、こんな風に色んな人を振り回して迷惑をかけたことがこれまであっただろうか。

 「…たかが猫と、思うかい」

 どんな時でも冷静で頭の良い後輩に問いかける。きっと客観的で忌憚のない意見をくれることだろう。

 『まあ、私には猫にそこまで入れ込む気持ちは分かりかねますが』

 「…そう」

 『貴方にとっては、きっと必要なのでしょう。他ならぬあの猫が』

 そういう縁なんでしょうね。

 この後輩が縁などと不確かなものを言いだすのは珍しく、鼻の奥がツンと痛んだ。あの日、家の前にあの子が倒れていたのはそういう縁だった。ならばこうして偶然にも出ていくことができてしまったのも、また。


 「わたしはあの子に関してもうだいぶおかしい…よ、う………………だ…………」

 『……先輩?』


 足が止まる。眼の前の光景に、急に心臓がどくどくと早鐘のような音をたて始める。息を呑んだまま上手く吐けない。このまま吸い込んだ冷たい空気で胸が破けてどうにかなりそうだ。まさか、あれは。




 家の前で何か黒いものが落ちていた。




 「……っ」


 よく見るとそれは仔猫だった。近づいても動く気配はなく、けれどあの日とは違って倒れてはいない。家の前で途方にくれたように尻尾を丸めて座り込んでいる。


 気が付いたら走っていた。こんな追いかけるように猫に近づいてはいけないと出会ったばかりの頃にたくさん調べて学んだはずなのにそんなことは抜け落ちていた。


 家の前で黒猫は頭を低くして寒さに震えていた。耳はすっかり左右に伏せられて、うずくまる姿は弱々しい。綺麗に整えていたはずの毛並みはたった一日で見る影もなく、枯れ葉や砂にまみれてぼさぼさに固まっている。自分もあちこち仔猫の入りそうなところを探して泥だらけなので言えた立場ではないが、ひどい姿だ。それでも間違いない。一晩中かけてここまで歩いてきたというのか。


 黒猫がちらりと人間のほうを見た。

 藍渙の数歩先に、阿澄は居た。



 「あ、阿澄………」

 名前を呼んだはずの声は掠れてうまく出なかった。しゃがみこんで目線を合わせてみる。阿澄は動かない。いつもの軽やかな足取りで藍渙に近寄ってはこなかった。

 伸ばしかけた手が止まる。今この手で阿澄を抱き上げて連れ帰って、そのあとは? 彼は外の世界が恋しいのかもしれないと、常に暗然たる不安を一緒に抱えていくのか。仮にずっとケージに入れ首輪で繋いでいても安心できないだろう。阿澄がまたどこかへ逃げて行ってしまう前に早く抱き上げたいのに、無理矢理連れ帰ってこの家にいるよう強要することが、この子にとって真に幸せなことなのかと、もう一人の自分が問いかけてくる。

 (けれど、阿澄は自分の足でここに帰って来てくれた)

 きっと、自分が抱いて帰るのでは駄目なのだ。人間の勝手な都合で連れて帰るのでは。

 この子自身の足で、自分が家族として選ばれなければ。そうでなければきっと自分達はうまく暮らしていけない。


 〝――――ひとつ屋根の下で、ふたつの生涯が共に生きていくのならば、自分も相手も同じくそう望まなければ心は満たされない〟


 藍渙は静かに立ち上がった。お願いだからどこかに逃げ出さないで、と祈るような思いで阿澄を見る。そのまま息を殺してゆっくりと一歩ずつ離れ、玄関の扉まで移動した。阿澄はそんな藍渙の一挙手一投足をじっと見つめている。


 鍵を差し込むと大きな音がしないように慎重に回し、扉を全開にして固定した。一晩帰らなかっただけで家の中の空気はよそよそしい。

 日はすっかり昇り、透き通るような淡青の空から注ぐ日差しは冷たい空気と反して暖かかった。外の世界はこんなにも広く、美しいのだ。自分勝手に拾って愛情を押し付けてくるような人間は誰もいない。この広い世界を自由に生きるのも一つの生き方だろう。


 藍渙はさらに一歩、玄関の内側へと入ると、そっとしゃがんで両腕を広げた。


 「阿澄、わたしは、君と一緒に生きていきたい」


 鼻と喉の奥がきゅうと痛む。泣きそうな声で今度は掠れてしまわないように気をつけながら優しく話しかけた。わたしは、きみといたい。きみは?

 ゆっくりと眠りに落ちるような速さでまばたきをすると、ぽろりと涙が一粒こぼれた。玄関の床石にあたたかな染みがじわじわ広がっていく。

 どんな言葉で伝えればいいのか分からなかったから、藍渙は声で、視線で、まとった空気と持ちうる全てのもので愛そうと思った。こぼれた涙一つすら君への愛で溢れている。この腕の中は君のための場所だ。それらすべてを受け取って、外の世界ではなく自分とこの家で生きることを選んでくれたのなら、そのとき君はわたしと――――――

 (この先を共に生きる、いのち)


 黒猫はゆっくりと立ち上がった。

 今まで来た道を振り返って、どこか遠くを見ながらしばらく考えるように動きを止める。やがてもう一度人間のほうを真っ直ぐに見据えて、またじっと考えた。ふるりと身を震わせてから、伸ばされた腕のほうへと一歩踏み出す。


 近くの家から子供の練習であろうピアノの音が流れはじめた。あるいは楽しげにはしゃいでいる学生達の声、飛んでいる鳥達の囁き、どこか遠くの車のクラクション。藍渙と阿澄がこの家で毎日聞いてきた日常だ。

 一人と一匹の間には、十一月の少し控えめな木漏れ日の陰が揺れていた。その木漏れ日をくぐるように小さないのちは自らの意志で一歩ずつ距離を縮めていく。



 覚束ないピアノの旋律が一曲終わるころ、まるで拍手でもするように風が吹いた。

 玄関では、ナァ、という小さな鳴き声と、ありがとうと涙まじりの男の声が、ぴったりと寄り添ったまま座り込んでいる。





あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。