「これは電子レンジで一〇秒ほど温めてから、こちらのフードとよく混ぜてお昼に。あといつも家ではこの服の上でくつろぐのが好きだから、落ち着かなかったら使って。トイレが汚れたら新しいものに取り替えて欲しいのと、水を飲んでいるか時々チェックしてもらいたいかな。もし飲んでなかったらおやつに…」
「藍渙、もうそろそろ出発しなければ」
「叔父上…ああ、もうそんな時間。それでは景儀、阿澄のことしばらくよろしくお願いします。夕方には戻ってくるけど、何かあればいつでも電話して」
留守番させてごめんね、と藍渙は黒猫をひと撫でしようとしたが、そういう気分ではないのか黒い毛玉はするりと躱していく。拗ねているような背中を名残惜しそうに見つめてから藍渙は後ろ髪をひかれる思いで会社の自室を出る。
かねてより藍啓仁がほうぼうに手を回していた見合いの準備は、着々とすすんでいた。
金光瑤が仲介人となっている手前もあり、あまり乗り気ではない藍渙も「形だけなら」と了承したものの、断るつもりの縁談に時間を割かせるのは相手にも悪い気がしてどうにも気がすすまない。可愛い黒猫との日々へと目をそらし現実逃避をしているうちに、いよいよ当日となってしまった。
叔父の気合いが入った打ち合わせ資料によれば、ちょっとした料亭で相手方と昼食をとったのちに、散策までしないといけないらしい。藍渙をその気にさせるべく、結婚前提の体をとりたいのだろう。半日はかかるその行事に阿澄を連れてケージに閉じ込めておくわけにいかず、仕方なく会社で景儀に預けることにしたが心配は尽きない。
藍渙には、書類審査のように他人の情報を集めて、そこからマッチする人を探してまでしなければならない結婚が、よく分からない。
そうまでして誰かと一生を共にしなければいけないのか。きっと、無難に生活してみせることはできる。子を成せと言われれば、仕事だと思えばできるのかもしれない。しかし無理やり決まった形に当てはめるようにあてがわれた人間と生きることに、これっぽっちも幸福が見いだせないのだ。自分にも、相手にも。
ひとつ屋根の下で、ふたつの生涯が共に生きていくのならば、自分も相手も同じくそう望まなければ心は満たされない。そう願える相手ができたのなら勿論その時は、と思わなくはないが、今のところそんな相手には出会えていなかった。そして欲しいとも思わないほど今の日々は十分に満たされている。
(早く帰って阿澄に会いたい…)
今頃阿澄はひとりぼっちで鳴いていないだろうか。思えば拾った日から、長時間離れたことはなかった。日頃構い倒してくる人間がいなくなってせいせいすると思われていたら、少し悲しい。
最近の阿澄は、よく自宅の窓辺でじっと庭を見ている。
通りすがりの野良猫とお喋りしていたかと思えば、急に静かになって自分の尻尾を噛み始めたり、前足で叩いたり。庭の木に止まっている鳥を捕まえようとして窓にぶつかっていた。昼寝も窓のそばが多い。もしかしたら外の世界が恋しいのかもしれないと心の底で思いながらも、きっと日当たりがいいからだろうと自分を誤魔化している。窓の前で外を眺めている阿澄の背中を見ると、まるで子供を騙して攫ってきたような後ろめたさを感じるのだ。
(今頃景儀とうまくやっているだろうか)
見た事がないほど上機嫌の叔父や、はにかみながら相槌を打っている見合い相手を横目に藍渙はこっそりと重たい息を吐いたのだった。
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「そんなに警戒するなって!」
景儀は部屋の隅で固まっている黒猫にちゅーるを見せびらかしながら奮闘していた。
上司のために黒猫を預かることになったのはいいものの、機嫌よく昼寝していた午前中とはうってかわって、目覚めた黒猫は飼い主の不在に気付いているようだった。
そわそわと部屋の中を探すように歩き回り、景儀が近づくとぱっと逃げていく。水は全く飲まない、言われたとおりに作った餌を置いても食べない。ちゅーるならどうだと近づけば尻尾を膨らめて威嚇する始末。
「頼むよ…お前に何かあったら俺クビにされかねないんだって。仕方ない…ほら、ご主人様の匂いだぞ~」
黒猫が普段毛布にしているというそれは、上司が使っているらしい夜着だった。入っているロゴは見たことがなかったが、おそろしく手触りが良く、しっかりした生地の割に重たくもなく暖かい。今度自分も買ってみようかとこっそりブランド名を調べて目をひん剥いた。自分が普段着ているものとゼロの数が二つほど違う。一生知ることもない世界のお召し物。これみよがしに誰もが知っているようなブランドではないところが、いかにもあの上司らしいところだった。景儀の人生で一度も触ったことがないような値段の布を、この黒猫は敷物にしているという。
床に置くことに抵抗感を感じながら餌の隣に広げる。黒猫はピクリと反応した。ようやく近づいてきてウン十万の夜着の上に陣取ると、確かめるように匂いを嗅いでいる。
「お前は大物だな…お前のご主人も大概だけど」
なんたって、お前のご主人様はあの藍渙大哥だもんな~と覗き込むと黒猫は目をまんまるに見開いて景儀のほうをじっとみている。どこまで分かっているか不明だが、ご主人様の話は効果的らしい。
「今日あの人は見合いに行ってるんだ。見合いって分かるか? 番だよ。うまくいったらお前の家族も増えるってこと。奥さんとか子供とかできて、お前のことばっか構ってられなくなるんだから、立派なお兄ちゃんになるためにも餌を食べてくれ」
あの人は自分の子供のことも、お前みたいにベタベタに甘やかすのかねえ。
目に浮かぶようだと景儀が妄想していると、突然黒猫は落ち着きなく動き始めた。景儀の月給に匹敵するその布のあちこちを噛み、床を掻くように爪を立てたかと思うと座り込んで体の後ろ側をわずかに浮かせ、緊張したように尾を震わせる。程なくしてツン、と鼻の奥まで染み付くようなアンモニア臭が景儀を現実へと引きずりだした。――――――黒猫が、おねしょをしている。
「あっ⁉ おっま…!」
思わず大きな声をだす。黒猫は驚いたように飛び退き、隣にあった餌皿を蹴っ飛ばしひっくり返して脱兎のごとく逃げていく。先程まで綺麗に紙袋の中で畳まれていた夜着は、今やおねしょと猫の餌にまみれてただの汚れた布と化していた。ところどころ黒猫の噛んだ部分がほつれて糸が飛び出し、小さな穴まであいてしまっていた。
「あああ…どうすんだこれ………! ご主人様の大事なパジャマをこんなんにして、ちゃんと社長に見合った品のいいペットにならないと捨てられても知らないぞ!」
その前に俺が社長に捨てられる!と濡れた夜着を慌てて回収しながら部屋の隅で小さくなっている黒猫を叱る。悪いことをした自覚はあるのか、耳を寝かせて縮こまっている。黒猫は一声もあげず、遠くで前かがみになったままじっとかたまって景儀を見ていた。
とりあえず、この夜着は軽く水洗いをしたほうがいいだろうと景儀は息を止めながら思案する。適当な石鹸で洗っていいような素材とは思えないが、尿と餌の臭いがきつく放置しがたい。餌もまだ残りがあるので、もう一度器に準備してこよう。
一刻も早く洗い流さなければ当分この尿臭は取れないだろう。景儀は知らなかったが、猫の尿はマーキングの意味合いもあるのでそう簡単には臭いが落ちない。
「ちょっと洗ってくるからいい子にしてろよ」
置物のように動かない黒猫に声をかけてから、汚れた夜着と餌皿を抱えて景儀はばたばたと部屋を出る。
――――――――扉をきちんと閉めるのも忘れて。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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