――――――――どうしよう、どうしよう
黒猫はひたすら走っていた。知っている道も、知らない道も。
小さな頭の中は途端にやってきた様々な情報に混乱していた。あの人は朝居なくなったきり姿を見せない。食事を持ってきたのも別の人間。出ていってしまったのだ。しゃちょー。らんほぁん。つがい。あたらしいかぞく。おねしょと、ひんのいいペット。すてられる。
あの部屋から逃げ出したかった。
扉が開いたままになっているのを見ていたら、たまらなくなって足が勝手に動いていた。怒っていた人間は近くに居ない。飛び出した部屋の外は、毎日優しく揺られながらあの人と通った廊下だ。見覚えはある。びくびくと人目に怯えながらも、屋外に出ることは案外簡単だった。
しかし建物の外は全く知らない世界だ。冷たい十一月の風が黒猫を取り囲む。どこに行けばいいのか分からない。どこに行けばあの人に会えるのかも、会いたいのかも、会っていいのかも。ただどこかへ行かなければと、ひたすら足の向くほうへと走っていく。
すぐ隣を、体の何倍もの大きさのモノがとてつもないスピードで通り過ぎる。音がうるさい。踏みつけられないように気をつけながら黒猫は彷徨っていく。家とは違うざらざらの地面。ひやりと冷たく、黒猫の足の裏を細かく傷つける。クシッとくしゃみがでた。どこか、ここより暖かくて身を隠せるところを探さないと。
(…しゃちょーの、ポケット…………)
今すぐ飛び込んでポケットの中で小さくなりたい。ふわふわの中で丸まって、時々はいってくるしゃちょーの指先を前足の肉球でつかまえるのだ。上手だね、と何故か褒めているほうのしゃちょーが嬉しそうにするので、気分がのればそのままちょっとだけ肉球を触らせるのもいい。――――なんて幸せな時間だろう。
楽しいことを思い浮かべながら歩いていくと黒猫の足取りは少しだけ軽くなった。いつのまにかざらざらの地面は、土に変わっている。ひらけたところに来たようだ。少し先に砂場が見えた。砂は好きだ。あそこがいい、猫が休むのにちょうどいい。
「ママ! ねこちゃんがいる!」
「あら、本当ね」
砂場には先客がいた。小さな人間が容赦なく近づいてくる。黒猫は来るな、と精一杯の力で尻尾を逆立てたが、「しっぽふわふわしてる!」と人間を喜ばせただけだった。やがて砂だらけの小さな手で無造作に掴まれそうになり、なんとか身を捩って躱す。
「触っちゃ駄目、噛まれるかもしれないよ」
「ええ~!」
「首輪がないから野良猫かもしれないでしょ」
「のらねこ?」
子供の注意が母親に向いた隙に黒猫はそこから急いで逃げ出そうとしたが、そのあと聞こえてきた言葉にぴたと足をとめた。
「首輪がある猫ちゃんは誰かのお家に住んでる子だけど、お家がなくて外で暮らしてる猫ちゃんもいるの」
「おうちがないの? パパとママおうちにいないの?」
じゃあうちで飼おうよ! とひときわ大きく無邪気な声が響いた。
冗談じゃない。再び伸びてくる手に今度こそ逃げ出して距離をとる。
「うちはマンションでしょう。ほら、もう帰るよ」
黒猫のほうを名残惜しそうに見ている小さな人間は、その言葉と共に連れられていった。助かった。帰ったらおやつがどうとか、そんな二人の声が遠くなっていく。あの人間達は帰るところがあるから、野良じゃない。
砂場には誰もいなくなった。黒猫は今度こそ休める、と砂場に足を踏み入れた。日差しがずっと当たっていたせいか、さらさらの砂は少し暖かい。四本の足が砂に埋まると、あのポケットにほんの少し似ているような気がする。膨らんだままだった尻尾から力が抜けてしなりと垂れる。黒猫はもう一度周囲を見回してから小さくなって座ると、首輪とは何のことだろうかと考えた。首輪がないと、お家がない子。
あそこはお家じゃないのか。それならしゃちょーはどうして置いてくれていたのだろう。あの家で生まれたわけじゃないし、あの人の名前は多分「しゃちょー」じゃない。今朝部屋に来た人間達はなんと言っていたか。初めて見るひげの人間は。立派なペットになれと怒ったあいつは。
(…らんほぁん?)
なんだい、と声が聞こえたような気がした。
あの人から名前を教えられたことはない。教わった名前は自分が「あーちょん」ということだけ。しゃちょーという呼び名すら、よく聞くから勝手にそう呼んでいただけなのだ。らんほぁん、らんほぁん。声に出してみる。うにゃうにゃと鳴き声のようなものが漏れた。これがあの人の名前なのだろうか? 他の人間達は知っていることなのに、自分は名前を聞けもしない。
あの人は今日、番を見つけにいったのだと人間が言っていた。ならばあの家はあの人と、その番の人間や子供達のための巣だ。家族を探しにいったからあの人は今日出ていってしまったのか。番を連れて戻ってきたらそこに――――自分の居場所はあるのだろうか?
(かぞく………)
窓の外によく来る野良猫が、自身のかぎ尻尾を自慢しながら人間に好かれる猫とはどんなものか教えてくれた。愛される猫は、人間の家族に迎えてもらえるのだと。上手に愛されるにはどうしたらいいのか分からない。あの人の傍にいていい猫とはどんな猫だろう。あの人に見合った〝立派なペット〟とは。少なくともおねしょをして怒られるような猫ではない。
あの人はいつも美味しいご飯をくれて、やわらかい寝床で優しく名前を呼びながら暖かく抱きしめてくれる人間だった。あの家で、あの人の家族になって――――同じようにしてあげたいのに、猫ではそれも叶わない。
自分は立派な猫にも、立派な番にもなれはしない。
そのまま少し眠ってしまったようだった。
空はうっすら紫色に染まり、あたりはだいぶ暗くなってきている。黒猫は寒さに耐えられなくなり、のろのろと歩き始めた。動いているほうがまだましだ。
喉が渇いて仕方がなかったので、道端にあった水たまりを舐めてみた。じゃりじゃりとした泥水。とても飲めそうにない。これでは野良猫としてもやっていけないではないか。
仕方なく水は諦めて、黒猫はとぼとぼと足を動かした。暖かな日差しをそそいでくれた太陽はもうどこにもいない。一歩踏み出すごとに風は冷たくなった。どこでもいい、もうどこにでも行ける自由な猫なのだから、足の向くままに行こう。これからやってくる夜に、疲れて倒れてしまわないように楽しいことを考えながら。
はじめて肉をもらったときのこと。あのひとも少しはなれたところで、いっしょになにかたべていた。ほわいさんと遊んだら、楽しかったならまたいこうって言ってくれた。
おふろのとびらにひっついて鳴くと、しかたないねって笑って中にいれてくれる。あのひとの足先はいつもちょっとつめたいから、ときどきくっついてあたためてあげよう。かわりにふわふわのポケットにいれてもらうのだ。
あのひとのかばんに入ってかくれんぼをするときは、すぐにみつかる。のぞきこんでくるから鼻先であいさつしたら、同じようにかえしてくれた。けんかした日は、たくさんかまってくれて、おこってたことはどうでもよくなった。おれのはげをこっそりみるのをたのしんでるのも知ってる。それから、それから――――――
もしもおれがにんげんだったら。
おれも、あのひとにごはんをつくってあげるのに。
あしだけじゃなくてぜんぶあっためてやるのに。
あーちょんってよばれたら、らんほぁんってかえしてやれるのに。
もしも俺が人間だったら。
ちゃんと、好きだって言ってあげるのに。
どうしておれはねこなんだろう?
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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