阿澄はその後、丸一日かかってようやく機嫌をなおした。
景儀に渡されたちゅーるを献上すると、ジト目をしながらも威嚇をやめて近寄ってきてくれた。その後はお気に入りのおもちゃで狩りの本能を満足させるように獲物役に徹し、存分に怒りを発散させてやる。いつもより気合の入った肉球が飛んできた。
家に帰ると、普段は茹でているだけだった夕飯の鶏肉をスモークチップで軽く燻製にして香りを炊き込めた。豪勢にグレードアップだ。
お腹が満たされたあとは暖めておいた檜の風呂桶に連れていき、優しく毛並みに沿って背中からお尻、後ろ脚にかけてゆっくり撫でてマッサージに勤しむ。尻尾がゆらゆらと機嫌良さげに揺れていたのでもうそこまで怒ってなさそうだと胸を撫で下ろす。
寝る前になっても阿澄は時々火がついたようにフーフーいいながら藍渙に猫パンチを繰り出していたが、爪を出していないのでもはや遊びの延長と判断した。しばらく付き合ったあと、もう寝るよと声をかけると阿澄は軽やかにベッドにのぼってくる。
一緒に寝てくれるのかと問うと、返事のように小さくナァと鳴いたので、これをもって無事に仲直りを果たしたのだ。
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「阿澄くんは、藍さんを翻弄することを覚えているところなのかもしれませんね」
何回目かの通院時にこの時の話をすると、医師は阿澄のハゲてしまった胸元を覗き込みながらそう言って笑った。
初めてこの病院に駆け込んだ日からだいぶたった。かつて火傷の治療に抵抗して暴れていた阿澄は、今では観念したようにひっくり返っている。
家猫は総じて飼い主を翻弄する生き物という。最近かくれんぼを覚えてませんか? と聞かれ、思い当たる節のあった藍渙は大きくうなずく。
生後三ヶ月目程度までの子猫は社会性を身に着けている時期だ。この時期に体験したことを受け入れておとなになっていく。野良猫であれば母猫や兄弟、他の猫達とコミュニケーションを覚える時期だが、今は藍渙を相手に他者との接し方を覚えているらしい。
聶家の懐桑は初めて会う阿澄相手に上手にコミュニケーションをとれる子だった。あれは子猫の頃に動物達に囲まれて育った環境から身についた社会性だったのだろう。
「貴方を試しているんですよ。かくれんぼは狩猟本能の名残だけでなく、そういう駆け引きを覚える遊びでもありますから」
ちょっとそっけなくしても遊んでくれるのか、姿を隠したら心配して探してくれるのか、阿澄は甘えたり離れたりしながら、どこまでならゆるされるのか藍渙との距離を確かめているらしい。
阿澄のかくれんぼは唐突に始まる。
それまで静かに寝そべってじっと藍渙を見ていたのが、思い立ったようにふらりとどこかにいなくなると始まりだ。
カーテンの影、ゴミ箱の裏、藍渙の鞄の中や洗濯物の下。大抵は尻尾や耳が見えていてあまり上手な隠れ方ではない。
それに気付かない振りをして「わたしの可愛い阿澄はどこに行ってしまったのだろう」とわざとらしい声で部屋の中を探してやると、少しはみでた黒い毛がひょこひょこ揺れる。
阿澄と呼んで探している時には絶対に出てこない。しばらくそうしてから諦めてどこかへ行く素振りを見せると、猛烈な勢いで飛び出してきて藍渙の前に立ちはだかるのだ。おれ、ここにいるけど? と何でもなさそうな態度で尻尾だけは嬉しそうに揺らしながら。
「この時期に色んな遊びや経験をさせると、豊かな子に育つと言われています。猫は人間の四倍のスピードで生きていますからね、あれこれ覚えるのもあっという間ですよ」
体も情緒の発達も早いから、春が来る前には去勢の相談が必要かもしれませんね。
その医師の言葉を胸に、藍渙は複雑な気持ちで病院をあとにした。
阿澄が成長していくことは素直に嬉しい。もっと色んな経験をさせてあげたい。
巷では猫の七五三なるものがあり、記念写真をおさめてくれるらしい。もう少し大きくなったら一緒に食事や旅行にも行ってみたい。自分の拙い自炊ではなく美味しいものを食べて欲しいし、猫が暮らす温泉旅館というものをテレビで見たこともある。
けれど、それらは藍渙の勝手な片想いなのだと分かっている。拒絶された首輪は行き場をなくしケージに結ばれているし、人間用のネクタイもたった一日使われただけで同じく首輪の隣で飾りとなってしまった。
阿澄としたいことは、必ずしも阿澄自身も望んでいるとは限らない。気が乗らないときの阿澄は実につれない。お前はただの食事と暖房係だと言わんばかりに。
だから、阿澄が自分と駆け引きをしているのだと言われたとき、なんて素晴らしい響きだろうと思った。自由に振る舞ってもゆるされているのか自分を試しているのだとしたら、素っ気ない態度も愛しい。
出会った頃に比べたら格段に仲良くなれたはずだが、阿澄は満足しているだろうか。言葉が分かれば、そんな駆け引きしなくていいよと伝えてあげるのに。
この日々を通じて阿澄が確かめた自分と彼の距離は、今どのぐらいなのだろう。
「わたしは今、どんな存在?」
“猫は人間の四倍のスピードで生きている”
それはつまり、人間と同じだけの時間は生きられないということ。
藍渙は自身に目もくれずに食事に夢中になっている阿澄を眺めた。
願わくば、一日でも長く君に翻弄されていられますように。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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