「阿澄…もうしないから」
「わたしが悪かった、本当にごめんなさい」
「どうしたら許してくれる?」
別れる前のカップルか、と内心でツッコミをいれながら、景儀は見たこともないほど情けない顔をした上司を眺めた。
自分達の会社の社長が突如猫を飼い始めた話は、ようやく皆慣れてきたのか社内で話題にのぼらなくなっていた。社長は猫を部屋から出さないし、仕事にも何ら支障はない。はしゃいでいた女性社員達も日常に戻った…とみせかけて、水面下では誰が社長と一緒にペットカフェに行くか激しい争いが行われているようだが、一応落ち着いている。
当の本人はそんなことは露知らず、自室で猫と幸せな勤務時間を過ごしているようだ。まるで愛人を連れ込むダメ社長のようだなと思わないこともなかったが、景儀も時折顔をのぞかせる黒猫は嫌いではなかった。
だが今日は一体何事か。
景儀が、半年かかってようやく終わらせたプロジェクトの報告書を持って社長室を訪ねると、誰もが認める完璧な上司が小さな猫に必死で許しを乞うていた。こんな面白い事が起こっているなら思追も来ればよかったのに。
「あの………社長?」
「…! すまない、気が付かず」
「いえ……どうかしました?」
声をかけるとすぐにいつもの上司の顔に戻る。部屋の奥にはビタンビタンとしっぽを床に叩きつけている黒猫。目つきは鋭く、イカ耳をぴんと張っている。景儀の目にもはっきりと分かる。あれは怒っている。
黒猫は初めの頃こそ人間に慣れてはいなかったが、最近は仲睦まじくやっていたのではなかったか。
「ちょっと阿澄に無理強いをしたら怒らせてしまって」
「む、無理強い?」
「これを…」
そう言って藍渙は手に握っているものを見せてくる。
それは柔らかそうな布で出来た真っ白の首輪だった。わずかに優しい光沢があるところをみると絹だろうか。手の込んだ刺繍とシルバーの精巧な飾りが一つついており、華美ではないが素材の良さが滲み出ている。
ああ首輪ですか、と答えようとして景儀ははたと考える。こんな見るからに高級そうな絹の首輪、普通に売ってるのか? どこかのブランド物?
「その…阿瑶に首輪でもつけておいたらどうかと言われて」
「はあ」
「首に擦れたりすると可哀想だから、馴染みのテーラーで相談したらすぐに正絹で作ってくれると」
「正絹」
つまりオーダーメイド。届いたそれを早速、意気揚々と黒猫の首に結んだ。そして黒猫はそれはもう大層嫌がって大暴れし、自分で外して床に投げ捨てるとあの怒りの構えで藍渙を威嚇し続けて今に至る、と。小一時間はやっているらしい。
誰だって首に突然縄かけられりゃ嫌だろうなと景儀は納得した。
正絹は化学繊維と比べてアレルギーを起こしにくく通気性もいい。同じく絹の糸で柔らかな刺繍が施され、オーダーメイドともなればそれなりの値段であっただろう。存分に心を尽くされた高級品ではあるが、猫にとっては関係ない。ただの鬱陶しい紐だ。
「せっかくお揃いなのに………」
「………は?」
「同じ生地でネクタイも作ってもらったんです。…わたしの」
ほら、と恥じらいながら目の前の男が首元を見せてくるのを、景儀は胡乱げに眺めた。淡い藍色の刺繍が鮮やかに施されたネクタイは、社長という肩書きを背負った男によく似合っている。白地のタイなど結婚式でもなければ浮いてしまいそうなものを、完璧に着こなすスタイルと顔。わざわざ揃いにするためにオーダーしたこちらは、首輪の値段に0を一つ足したぐらいだろうか――――気が狂っている。
「阿澄、もう付けないからこっちにおいで…そこは寒いでしょう」
藍渙が近寄ろうとすると、黒猫はフーッと威嚇の声をあげながら尻尾を膨らませる。景儀は少し黒猫に同情した。素晴らしい男に愛されているが、残念な方向に重たい。
「うーん結構怒ってますね…………あ。社長ちょっと待っててください」
良いことを思いついた。あの黒猫が簡単に飛びつくアレがあったはずだ。
景儀は給湯室へ行くとシンクの棚の中を漁った。ある。事務の子達が社長とお近付きになるために密かに隠し置いていったアレが。
景儀は一つそれを拝借すると急いで社長室へと戻る。
「社長、どうぞ」
「これは……………」
どんな猫だってこれには勝てない、おやつ界の王。い○ばのチャオちゅーる。
まだ黒猫がこの会社にきたばかりの頃。女性陣達がちゅーるを持ってきて盛り上がっているのを偶然聞いた景儀は、上司が少し席を外している間にこっそりそれを黒猫に与えたことがあった。噂通り本当にどんな猫も好きなものなのか、と。
人間に怯え小さくなっている仔猫が、早く懐いてくれたらいいなという気持ちもあった。仔猫にいち早く懐かれて女性陣の気を引きたい気持ちもだいぶあった。
仔猫の食いつきは最高だった。あんなに怯えていた生き物が、警戒心も忘れて景儀の手のすぐ先で一心にちゅーるを舐めている。そんなに美味しいのかと景儀も舐めてみたが、生臭さが勝って味はよく分からなかった。
「こいつこれ好きなん…………………じゃないかと思うんで」
「阿澄は初めてのものには警戒するんだ」
初めてじゃないので大丈夫です、という言葉は飲み込んだ。
まあまあ猫はちゅーるが好きって相場が決まってますから、と適当なことを言うと、藍渙は確かにそうかもと頷いてちゅーるの袋を開けはじめる。こんなに簡単に丸め込まれるなんて、やはり猫のことになると弊社の社長は少し様子がおかしいようだ。
これ以上ここにいると、ボロが出て勝手におやつをあげたことがバレてしまうかもしれない。景儀は失礼しますと一礼して足早に部屋を出る。
「阿澄、あーちょん…これで仲直りしよう、ゆるしてくれる?」
扉の向こうから再び許しを乞う声が聞こえてくる。甘ったるい。
あんなに嬉しそうに揃いのネクタイを締めて、あれじゃどっちが首輪を付けられてるのか分からないなあと景儀は愛の形の難しさを学んだのだった。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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