週末のこと。
学生時代の先輩から「猫を連れて家に来い」と一言だけの、至極簡潔なメールがきた。
聶明玦は、金光瑤と共にたいそう世話になった大学時代の先輩だ。卒業後は年に一、二回会う程度で金光瑤ほどの付き合いはないが、律儀に欠かさず年賀状のやり取りをして交流を続けている。藍渙が猫を飼い始めたことは金光瑤が話したのだろうか、無駄なことは嫌いな人なのでわざわざメールを寄越すのなら用があるのだろう。
何度かやりとりをすると明日にでも来いと言うので、ちょうど週末だったこともあり阿澄を移動用のケージに入れて十数年ぶりに聶明玦の家を訪れた。聶家は辺りでは有名な畜産家で、広大な牧場と屠畜場のすぐそばに大きな家がある。聶明玦はそれらを先代から受け継いだ。家業を継いだ長子という共通点もあり、学生時代は随分と気にかけてくれたものだ。
湿った草の匂いや独特の畜産臭が流れてくるのを感じながら聶家の前に立つ。重厚な門構えは時がたっても記憶の中のものと変わらない。ケージの中では阿澄が落ち着きなくそわそわ動いているようだ。インターホンを鳴らすと、しばらくしたのちに扉が開いた。
「来たか。中に入れ」
「ご無沙汰しています。その、急にすみません」
「こちらが呼びつけたことだ」
久々に会ったかつての先輩は記憶のそれよりも一段と日に焼けて精悍さが増していた。鋭い眼光は昔から変わらない。聶明玦は、そいつだなと言うと阿澄の入ったゲージをぐっと覗き込んだ。
ピャー……とか細い鳴き声がケージから聞こえる。最近分かってきたことだが、これは別段阿澄にとって可愛く振る舞っている鳴き声ではなく、助けを求めているようだった。リラックスして時折喉を鳴らしてくれる時には存外大人の猫のようなしっかりした声を出す。
突然見知らぬ人間に覗かれて小さくなっているのが想像できる。安心させるように阿澄、と呼びかけてやるともう一度ピャ…と返事のようなものが返ってきた。
「…ついてこい」
聶明玦はそれだけ言うと中に入るよう視線を向けて廊下の奥へと行ってしまう。慌ててついていくと、突きあたりの扉の前で入れと促された。
「こ、れは…」
通された部屋に入ると藍渙は中の光景に目を見張った。
二〇平米程度の広い部屋の中には壁の至るところにキャットウォークがつけられていた。見上げると天井にも板や柱が打ち付けられており部屋を横断できるようになっている。階段やトンネルなどバリエーションも豊富で、ちょっとしたジャングルジムのようだった。人間の生活用品は一切見当たらない。――――これは世にいう、猫部屋。
「懐桑!」
「えっ」
聶明玦が何かを呼ぶと、部屋の真ん中にぶらさがったハンモックから白いものが飛び出してくる。近づいてきたそれは、クリーム色の毛並みに顔や耳、足先だけが焦げ茶色の長毛猫だった。いわゆるタヌキ顔だ。大型で毛が長いのでシャムではなさそうだが、藍渙には詳しい種類は分からない。
長毛の猫はしばらく聶明玦の足元でぐるぐるとすり寄ったのち、藍渙のほうにも挨拶するように鼻を近づけてくる。客に物怖じしない、落ち着いている子だ。
藍渙は阿澄の入ったケージをそっと床に置く。猫はすぐにケージに近寄ると間延びした声でなぁ~と一声鳴いた。
「懐桑だ。一歳になる」
「驚きました………猫を飼ってるだなんて一言も」
「わざわざ話すような機会もなかったからな」
失礼ながら全く愛玩動物を飼うイメージが無かったので、心底驚いた。ドーベルマンやボルゾイが横に控えているのなら想像ができるが。実はこの長毛猫も凄まじい狩猟猫なのだろうか。
聶明玦は少し待ってろと部屋から出ていく。外でなにやら物音がしたのちに、大小まちまちの袋を抱えて戻ってきた。「以前懐桑に買ったものなんだが」と差し出されたそれを見ると様々なメーカーのウェットフードのようだ。
「枝肉の加工した余りを持って帰って食べさせていたら、そのうち肉ばかり欲しがってキャットフードを選り好みするようになって………」
「ああ…なるほど…」
身に覚えがある話だ。病院で好物ばかり与えて偏食家にしないよう注意されたことを思い出す。幸い今の阿澄は食い意地がはっているのか何でも食べる優良児だが、懐桑は長毛の雰囲気も相まって見るからにグルメな雰囲気が漂っている。
「本当は外猫にしようと思っていたんだが…たまに出ても乾草の上でずっと寝ているだけで、ネズミの一匹捕りに行く気概もない」
「それは…穏やかな猫ちゃんなんでしょうね」
「怠惰がすぎるので運動しなければ餌を取れないようにした」
聶明玦は苦々しげに懐桑を見てため息をついた。狩猟とまではいかないが、牛舎のネズミ捕りぐらいはと自由に外へ出られるようにしていたのに、懐桑は自ら望んで家猫になってしまったのだ。どう見ても作り付けのこの部屋のキャットウォークは聶明玦が全て自分で作ったという。木目はそのままで塗装などはされていなかったが、よく見ると綺麗にヤスリがかけられて角が取られている。機能面を重視し外観にこだわらないこの人らしい。
キャットウォークの所々には小さな餌場が設置されていた。なるほど、自分で登らなければ食べられない仕様だ。
「あいつの偏食は、甘やかした俺にも責任はあるんだ…」
食べなくなって余ってしまった未開封のウェットフードがもったいないので、気に入るものがあれば貰ってほしいというのが今回呼ばれた理由のようだった。
+
猫達はケージの扉を挟んでなにごとか猫にしか分からないやりとりをしていた。
見知らぬものに対して警戒心の強い阿澄だが、懐桑には怯えていないようだ。扉に鼻先をつけて懐桑を見ている。野良で生きていたから猫には慣れているのか。少しケージから出してもいいのかもしれないと、藍渙は聶明玦に許可をとってからケージの扉をそっと開けた。
中からすぐに黒い腕がにょきっと出てくる。体はケージの中だ。阿澄は短い腕をめいっぱい伸ばしてちょいちょいと懐桑に触ろうとしている。一方で懐桑はスンスンと腕の匂いを嗅いだかと思うと突然ケージに首を突っ込んだ。
「⁉」
懐桑は一歳といえど阿澄の倍以上の大きさだ。流石に怯えるのでは、と止めに入ろうとすると、懐桑は阿澄の首ねっこを咥えておもむろにケージから顔をだした。
親猫がするようなその姿に、止めるのも忘れて唖然と眺める。懐桑は優雅に歩いていく。部屋の奥に置かれていた丸い猫ベッドに阿澄を置くと、自分もそこに横になり阿澄の背中をマイペースに舐め始めた。阿澄はぬいぐるみのように固まっている。
「あれは…阿澄の世話をしてくれて…?」
「あいつは去年生まれたばかりの仔牛にも同じことをしていた」
聞けば牛の出産を助けるために牛舎に向かった聶明玦に珍しくついてきて横でなあなあと大騒ぎし、生まれた仔牛を舐めていたらしい。狩りよりも子育て向きなんでしょうかと言うと、聶明玦は眉間の皺をさらに深くして「オスなのに」と大きなため息をついた。
二匹はその後ふがふが言いながらひとしきり交流を図っていた。
帰る頃には阿澄は遊び疲れて懐桑のベッドで爆睡していたので、人間よりも猫のほうが早く仲良くなれるんだな…と見当違いの寂しさを感じながら、藍渙は阿澄をケージにいれて帰路についたのだった。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
0コメント