小話

 「わ~可愛い!触ってもいいですか?」

 「私も猫飼ってるんです~良かったら一緒にお買い物しにいきませんか?ペットと一緒に入れるカフェも知ってるんですよぉ」

 「あっずるい私も行きたーい!」

 「ねぇ目まんまるでかわいい~!」



 普段は静まり返っている会社の一室が、いつにないほど賑わっている。

 阿澄と通勤するようになって数日がたった。

 初めて職場に連れて行った日は、人目につかないようこそこそと移動用のケージを運び、自室に人を入れないようにした。CEO――会社の最高経営責任者という役職をしていたことが幸いして、基本的には誰も自分の仕事部屋には入ってこない。阿澄は知らない場所に連れてこられて終始警戒していたが、タッパーに入れて持ってきた肉を多めにフードに混ぜて、衝立で人間が見えないようにしてやれば食事だけはそこそこ食べてくれた。

 しかしいつまでもそうするわけにもいかない。翌日部下に事情を打ち明けるとまたたく間に社内で広まり、数日後には書類の確認という口実をぶら下げた女性事務員達がこぞって集まってきてしまった。きっと景儀あたりがあちこちで話してしまったのだろう。

 見知らぬ女性達にきゃあきゃあと囲まれて阿澄は目を白黒させて小さくなっていた。いつも自分に向けるような鋭い目つきではないのは気の所為だろうか。ピャ…と小さな鳴き声まで聞こえる。家では聞いたことがない声だ。阿澄はオスのようなので、やはり女性のほうがいいのか。もしも買い物だのペットカフェだのに行くうちに誰かに懐いてしまって、「私がこの子の里親になりますね」なんて言われでもしたらどうしよう。阿澄はとても可愛いからこんな風にすぐに人気者になってしまう。うちの子だと牽制しておかなければ。

 「…申し訳ないけど触るのはやめてあげて。知らない人が苦手なんだ」

 ――――知らない人どころかわたしも触らせてもらえないけれど。

 事実はぐっと飲み込んで阿澄の入った段ボール箱をさりげなく自分の方に引き寄せて回収する。阿澄はチラリとこちらを見てすぐに顔をうずめて丸まってしまった。わたしには可愛い声で鳴いてくれない。


 阿澄はいまだに段ボール生活を続けている。

 結局、真新しい立派なケージを買っても阿澄は段ボール箱に居座り続けた。匂いがついてるほうがいいのかと敷き詰めていたタオルや使った猫砂ごと移動させてみたが、すぐに箱のほうへ戻りたがってしまう。気に入っているのならと、いずれサイズが合わなくなったりボロボロになるまでは好きにさせておくことにした。選ばれなかった可哀想な真っ白い新品ケージは阿澄のおもちゃ入れになっている。

 段ボール箱の一部を切り取って自由に出入りできるようにしてやると、這いつくばって周囲を警戒しながら少しだけ出てくるようになった。近寄るとぱっと逃げ帰ってしまうが、離れたところで見守っていると寝室の中を慎重に冒険し始める。少し家に慣れてきたようだった。

 見かねた思追が女性達を解散させると、仕事部屋に一人と一匹の静寂が戻る。阿澄は疲れたのか構ってくれるなと言うように背中を向けて寝そべっていた。

 ひとりで留守番ができるぐらいになったら家に居させるほうがいいかもしれない。ここには隙あらば里親になりたがりそうな女子が多すぎる。

 「阿澄…やっぱり女性の飼い主がいい?」

 ふと本に書いてあったことを思い出してそんなことを聞く。女性のほうが動きがゆっくりで声が高いので元来猫が懐きやすいらしい。自分は一般的な男性達の中では声が大きいほうではないが、女性のような柔らかさはない。手も大きいので阿澄が怖がるのだろうか。

 あれから軍手をつけて阿澄に触るようにしている。胸の傷はほとんど治りあまり暴れなくなったが、医師に言われた通り小さな十円ハゲが残った。そもそも野良猫が火傷をすることなんてあるのだろうか。まさか、人間に虐待された?

 「あーゴホン。………ア、アーチョン」

 無理に高い声をだそうとして裏返った。びくりと震えた阿澄が何事かとこちらを見てからまたそっぽを向いて小さくなる。これはいけない。今のは無しで。

 「阿澄…阿澄」

 なるべく優しく何度も声をかける。無視されるのは男の声だから? もしかしてその火傷は男性にやられたのか。男の自分では阿澄にストレスを与えるだけだろうか――。


 黒猫は背中を向けたまましっぽの先だけを軽く二、三回振っていたが、藍渙はそれが返事であることに気づかないまま、じっと黒い背中を見つめていた。

あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。