きみのなまえは

 胃袋を掴んだ。初めて食事をして以後、食に関しては比較的順調な気がする。

 あれからもう一度あのマグロ味のウェットフードを出してみたが、やはり食べなかった。黒猫は魚より肉派らしい。鶏肉だけでは栄養が偏るので、肉をふやかしてフードに混ぜてやると、おっかなびっくりながら食べるようになった。藍渙が部屋にいないほうが食いつきがいい。仕方ないので、廊下からこっそり覗き見している。

 牛肉や豚肉など色々試してみたが、結局一番食いつきがいいのは最初に使った鶏もも肉だった。猫だからと何となくイメージで鰹節も混ぜてみた時には、ピャーと甲高い鳴き声をあげて食べていたのでよほど美味しかったようだ。そう高いものでもないから時々混ぜてあげよう。

 食べれば腹もふくれるのか、気付かないうちに段ボール箱の中でこっそり排泄するようにもなった。ひとまずこれで生きていくのに最低限のことはクリアだ。警戒のあまり排泄できずに膀胱炎になるかもしれないと言われていたのだ。


 箱の中に猫砂を置くと、そう何日もたたないうちに黒猫はそこがトイレだと覚えたようだった。賢い子だが、砂を交換しようと藍渙が手を入れると膨張した毛玉になって隅っこに逃げてしまう。まだ到底撫でたりはさせてもらえない。

 胸の火傷に薬を塗る時は大暴れするので、藍渙の手は小さな引っかき傷だらけだ。ふわふわの毛玉から繰り出される爪と牙。けれど自分の匂いに慣れさせたほうがいい気がしたので手袋などはしていない。仔猫ながら自分の身を守ろうという根性がある。この子は、生きようというまばゆい意志に溢れている。





 「しばらくは軍手をしないと駄目ですよ」

 数日後、藍渙は己の浅はかさを知ることとなる。

 動物病院へ二度目の受診をすると、医師は藍渙の手をみて真っ先にそう告げた。自分が飼い主になることにしたと言うと、それならば尚更だと言葉を重ねる。感染症をもらう可能性が高いので爪を出さなくなるまでは素手で触ってはいけなかったのだ。

 食事を手作りすることは構わないようだったが、そのためにはしっかり勉強しなければならない。鰹節は塩分やリンが多く、腎臓の弱い猫という動物には本来向いていない食材らしい。偏食家になると将来若いうちに病気になってしまう。あくまでもおやつ程度にとどめるよう警告される。

 初心者ながら順調に世話できていると思っていたのは思い違いだったようだ。

 肩を落とした藍渙に、医師はワクチンの予約をとりながら「それでもこの子にはもう貴方がすべてなんですよ」と励ます。幸い、胸の火傷は順調に良くなっていたのが救いだ。

 「そういえば藍さん、この子の名前は? 診察券が空欄になっていて」

 「名前……」

 言われてみれば決めていなかった。何が順調だ。名前すら呼んであげてないのに。

 黒猫をみると段ボール箱の隅で小さくなって微動だにしない。仔猫らしからぬ、むすっとした表情だ。いまだにこの使い古しの箱で生活させていることにも気が付き更に自己嫌悪に陥る。ちゃんとしたケージを買ってあげないと。

 藍渙が見ていることに気付いたのか、黒猫もじっと見返してきた。おうやる気か、と臨戦態勢の目つきだ。

 「……………阿澄」

 初めて見つめた時もタンザナイトのような瞳が美しかった。真っ直ぐに藍渙を射抜いて離さない。透き通って澄んだ湖を思わせるから、阿澄。

 いい名前ですね、と診察券に名前を書き込んでくれる。渡されたそれを見ると藍渙、阿澄と名前が並んでいた。

 ケージや参考書を買い込み早々に帰宅すると、「阿澄」と黒猫に呼びかけてみる。当然自分が呼ばれたとは思っていないので反応はない。今日は朝からずっと、彼は段ボール箱の隅で小さくなった毛玉だ。

 阿澄、阿澄。早く君がわたしの阿澄になってくれるよう一人前の飼い主になるからね、と藍渙は改めて決意したのだった。

あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。