10月9日

 困った。翌日になっても餌を食べない。


 黒猫を拾った日、結局藍渙は寝室の端のほうに猫入りの段ボールを置くことにした。ベッドからは少し離れているが何かあればすぐに見ることができる距離だ。

 自分が寝ている間に少しでも食べてくれればと思ったが、朝起きてのぞいてみても小鉢の中身は綺麗なままだった。一緒に置いた水は周りが濡れていたので少し口をつけたようだ。

半日以上たってしまった餌は一度処分する。マグロ味と書いてあったそれは少し匂いを嗅いでみたが、とてもマグロとは思えなかった。

 幸い今日は土曜日だ。一日家で面倒をみることができる。仕事がある平日は当面職場に連れていき、自分のデスクに置かせてもらうつもりだ。ほとんど自営業のようなものだからきっと優しい職場のみんなは許してくれるだろう。


 ――野良猫だったのなら、人工的な餌には馴染みがないのかも。


 冷蔵庫をあけるとちょうど鶏もも肉があった。猫が鶏を襲ったりねずみを捕ったりすることを考えれば、肉は与えてもいいはずだ。スマホで与えてはいけない食材を調べながら、もも肉を片手におさまる程度の大きさに切り分けて皿にのせ、電子レンジにかける。外側は固くなってしまったが、中まで十分に加熱できればいい。わかしておいた湯を垂らしながら包丁でたたくとふやかしたミンチのようになった。要は人間の赤ちゃんの離乳食に近い形状にすればいいのだ。

 それを食べやすいよう浅い豆皿にのせる。醤油を入れると美しい蓮の模様が浮かぶのが気に入って、数年前に購入したものだ。見た目はただの潰れた鶏肉だが、香りはあやしいマグロ味よりも食欲をそそる。

 残りの鶏肉は簡単に一口大に切って、ごま油をたらしたフライパンで炒める。肉の色が変わって少し焦げ目が見えたら、めんつゆの出番だ。適当に流し込んで、冷蔵庫に残っていた卵を溶くと中に放りこんで蓋をした。


 藍渙は細かいことにこだわる性質ではなかった。穏やかで整った風貌や雰囲気からは何でも完璧にできると思われがちだが、自炊や洗濯に関しては大雑把なところも多い。


 使った包丁とまな板をささっと洗ってからフライパンの蓋をあけると、ごま油の香ばしさを解き放ちながら薄黄色の卵が鶏肉を包んでいる。卵を分けていれなかったのでとろっとした仕上がりにはならない。きっちりと固まったピカタのようだ。冷凍してあった米を電子レンジで戻し、サラダボウルにすべて盛り付けると親子丼のようなものになった。玉ねぎも細ねぎもない、残った鶏肉をなんとかしただけの自分用の食事だ。

 作り終わる頃には黒猫のための食事も粗熱が取れていた。ボウルに自分のスプーンをのせると、両手にそれぞれ皿を持って寝室に戻る。ドアが開く音に反応したのか、段ボール箱の中からがさがさと動く音がした。

 「そろそろ、おなかがすかないかな」

 そう声をかけると黒い毛玉がびゃっと箱の隅へ転がっていく。動いた拍子に箱がガタガタと揺れ、それにまた驚いたのかばたばたと手足を動かしていた。かわいいな、と思わず笑みがこぼれてしまう。当人からしたらおっかなびっくりでそれどころではないのだろうが、かわいい。そんなに何もかもに怯えなくてもいいのに。

 豆皿を段ボール箱の中に置く。肉の匂いがするのか、昨日ウェットフードを置いた時とは違い、黒猫は興味を示している。警戒する猫を見つめていてはいけないとスマホで学んだ藍渙は、自分の皿を持ってベッドまで離れた。猫にも食物アレルギーが存在すると書いてあったので万が一の時のために見守っていたい。正直に言うとそれは半分くらいの建前で、もう半分は黒猫が可愛いので遠目でいいから見ていたい。

 長期戦だった。ほんの少し離れたところで、興味のないフリをしなければならない。音を立てないように慎重にスプーンを自分の食事に差し入れる。コツ、と皿に当たった小さな音一つでも黒猫は後ずさる。――ここにいるわたしは鳥の鳴き声や風の音と同じ、環境音ですよ。そう心の中で念じながらスプーンを自分の口に運んだ。卵は固く、鶏肉に味は染みていなかったがどうでもよかった。寝室で食事をすることになるなど考えたこともなかった。しつけに厳しい叔父が見たら卒倒しそうだが、今は誰もいないので許してもらおう。

 黒猫はじっと藍渙を見ていたが、時々ちらちらと豆皿のほうを見る。これはいける。かなり興味をもっている。我慢できない食欲と警戒心が交互に顔を出しているのが見て取れる。

 「…わたしはこちらで食べているから、あなたもどうぞ」

 つい話しかけてしまった。また毛玉がびゃっと遠のく気配がする。しまった、と咀嚼する歯に思わず力が入るとぐしゃりと嫌な音がした。――卵の殻。自分で作ったものながら、ひどいものだ。そういえば猫の食事に調味料は不要とあったが、食感などは気にしないといけないのだろうか。


 食事といえば、庭の植物に水をやっていなかったと思い出す。藍渙がまだ子供の頃から庭には低木や鉢植えが賑わっていた。母は体が弱く家からほとんど出なかったが、代わりに庭の手入れに心を砕いていた。幼い弟と二人であれは何、これは何と聞くと、心なしかいつもより元気そうにみえる母が答えてくれるのだ。両親が亡くなって、弟が家を出てからは藍渙が一人でこの庭の世話を続けている。

 昨年、センリョウが寿命を迎えて枯れたので、少し耕してしばらく休めていた場所があった。そこに先月新しくクチナシの幼木を植えたばかりだ。冬は多少手がかかる植物だが、香りがよいので来年花が咲くのを楽しみにしている。あとで水をやらなければならない。幼木も仔猫も、この家にやってきたばかりの真新しいいのちだ。そう思うと一気に子沢山にでもなったような気分だった。



 「…!」

 カツンと皿に何かが当たる音がした。

 ゆっくり視線だけ向けると黒猫が豆皿に頭を突っ込み、一口かじってすぐに箱の隅に戻っていく。そして藍渙のほうを伺うように見るので、思わず目が合ってしまった。顔にふやけた鶏肉がたくさんついている。かわいい。――食べてくれた。

 初めて子供が立ったときの親の心境とはこういう感じだろうか。見ているとまた警戒されそうなので、藍渙は慌てて何事もないかのように自分の食事を続けた。するとまた皿が揺れる音がする。自分の作ったものを食べてくれている。今度は皿から離れず食べ続けているようだった。

 嬉しさを噛み締めながらぼそぼそとした親子丼を食べていると、黒猫がまた箱の隅へとへばりついて、じっとこちらを見ていることに気付いた。さっきまで逆立っていた毛は少しだけへにゃりとしおれている。立ち上がって遠くから覗き込むと豆皿の中身は空だ。

 「美味しかった?」

 昨日のようには鳴いてくれなかったが、鶏肉だらけの顔が答えを語っているようだった。

あしあとふたつ

@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。