十月八日、朝ごみを捨てに行こうと外に出ると、家の前で何か黒いものが落ちていた。
よく見るとそれは仔猫だった。近づいても動く気配はなく、死んでいるのかとも思ったがじっと観察すると小さく息をしている気がする。眠っているというよりは、弱りきっているようだ。
藍渙は慌てて手に持っていた袋をごみ捨て場に置いてくると、再び仔猫に近づく。やはり動かない。近くに親猫がいる気配もなく、このまま放っておくと死んでしまいそうな気がした。触ると暴れるだろうか、と緊張しながらもこのままにはできないので優しく水を掬うように持ち上げてみる。
真っ黒の毛玉は一瞬身じろいだ。冷たいがまだ生きている。そう確信すると同時に、わずかに生臭い血の匂いがしたためひっくり返して見てみると胸のあたりが少し濡れている。怪我をしているようだった。
とりあえず家へ、となるべく揺らさないよう気をつけながら藍渙は家に引き返す。猫の正しい持ち方がわからないが、両手の上でおとなしくおさまっている。落とさないようにそろりそろりと足を進めた。行儀が悪いと思いながら足でドアをあけ、洗面所にあったタオルの上にそっと置くと、ふうと安堵の息をつく。黒猫はもう一度、小さく身じろいだ。
「猫 拾った 看病」 検索。
藍渙は黒い塊を前にスマホとにらめっこしていた。
ひとまず水道の湯をぬるくしてタオルを濡らし、猫を優しく拭いてやるとやはり怪我をしていた。それほどたくさん出血しているわけではなさそうだったが、あとで病院に連れて行ったほうがいいだろう。適当な段ボールの箱を持ってきて中にタオルと一緒に入れるとそのまま小さく丸まっていた。生後どれぐらいなのかは藍渙には予想もつかない。そもそも猫を触ったこともほとんどない。
拾ったら真っ先に温めるよう検索結果に書かれていたため、少し温めたお湯をペットボトルに入れてそばに置く。小さなタオルを何枚もかけてやるが、重たいだろうか、息ができないだろうか、とあれこれ心配になってきて、タオルを乗せたりずらしたりと忙しない。どのぐらい温めるのがいいのだろう。震えていないか小さな顔をじっと見てみる。見つけたときは毛がかたまり何年も洗っていない古い毛布のようだったが、丁寧に拭いてからは少し綺麗になった。
いまだに鳴き声一つあげないところを見ると、かなり弱っているのかもしれない。仔猫はたやすく死んでしまうと書いてあった。この子はもしかしたらまもなく死んでしまうところなのかもしれない。カラスにでも襲われたのか。拭いているとき煤のような汚れが気になったが、よほど過酷な環境で生まれたのだろうか。
「…頑張りましょうね」
独り言にしかならないが、声をかけずにはいられなかった。どのぐらい見込みがあるかわからなくともここで出会ったいのちだ、できれば生きて欲しい。今後の世話をどうするかは何も考えていない。ただ、両手で掬い上げたときの暖かさを思うと死んで欲しくない。
けれどもし残念ながら死んでしまうのだとしても、道端のぼろ雑巾のような姿ではなく、最期のその時は自分がそばにいてあげようと思った。
藍渙は段ボール箱を抱えるとスマホを片手に家を出る。とにかく病院に連れて行こう。
「さて…どうしたものかな」
何か答えてくれないかと段ボール箱を覗きこみ、隅っこで丸まったままこちらを伺っている黒い毛玉に藍渙は小さくため息をつく。
インターネットで見つけた近場の動物病院に連れて行くと、飛び込みにも関わらず獣医は丁寧に診てくれた。
どうやら胸元の怪我は火傷らしい。軽い出血もあったが傷そのものは致命傷ではないようだ。多少ハゲが残るだろうと言われたが、重傷でなかっただけで十分だ。
脱水はあるものの、レントゲンで胃泡が写っているので何か食べてはいたようですね、と医師に言われてそういうことがわかるのかと感心した。生後二ヶ月くらいのオスだという。自力で食べ物を探せる年齢ではない。やはり親猫がいたのだろうか。周囲にそんな気配はなかったし、あるいは、どこかの家で生まれたものの捨てられてしまったとか。もしそうならあまりにも気の毒だ。
入院や死んでしまうことも覚悟していたが意外にもそうはならず、一時間ほど点滴と検査してもらっただけですんなりと帰された。病院で引き取ってはもらえないので自分で里親を探すしかない。駆虫薬と数日分程度の必需品を精算時に受付で購入し、「もし自分で飼うつもりなら」と次回の予約票を渡されて、藍渙は段ボール箱を抱え家に帰ったのだった。
この子を探している飼い主がいるのではないかと付近の迷い猫のお知らせを探したが、見当たらなかった。野良猫なら然るべき保護団体に預けるのがいいだろう。自分は猫どころか動物を飼った経験がない素人だ。ましてや弱った仔猫など初心者が預かっていい命ではないはずだ。
そうわかっているが、一度守ってあげたいと思ってしまったからか里親探しの腰が重い。できればもう少しだけ見守って仲良くなれないものか。せめて元気になるまでだけでも。
黒猫は病院で火傷に触るときだけひどく暴れたが、それ以外は藍渙のほうを警戒するように丸い目を大きく見開いて見つめているだけだった。鳴き声は出さない。逃げたり引っかかれたりしないだけいいが、慣れるには時間がかかるだろう。今も段ボールの隅で耳をぺったりと横に倒し大きな目をあけてこちらをじっと見ている。
――青みの残ったグレーが、澄んだタンザナイトのようだ。
吸い込まれるように大きな瞳を見つめると、思わず近づいてしまったせいか黒猫はより一層警戒心を強めるように毛を逆立てた。心なしか低く唸っているような気もするが、音はか細い。ごめんね、と慌てて離れると唸り声が止まる。離れたのは正解だったようだ。猫の世界では信頼関係がないときに見つめ合ってはいけないのだと、藍渙は後で知った。
買ってきたウェットフードを小鉢にいれて段ボール箱に置いてみたが、食べる様子はなかった。餌で釣ろうという魂胆が見えているからだろう。ほんの少し小鉢のほうを見た気がしたが、黒猫は藍渙を視界から外すことなく一挙手一投足を逃すまいと見つめている。
動物は警戒した状態では食事や排泄といった隙を見せる行為ができない。こういうときは自分が居なくなったほうがいいのか。けれど見ていないと何か起こるのではと心配だ。明日からは病院で出された抗生物質も飲ませないといけない。とりあえず餌に混ぜようと思っていたが、それ以前の問題である。前途多難だ。
――やっぱり慣れた人に任せたほうがいいのだろうか。
せっかく助かったのに、自分のお世話が至らないせいで死んでしまっては目も当てられない。無理矢理にでも食べさせたほうがいいのか、しばらく姿を消したほうがいいのか。どのぐらい食べなくても大丈夫なのだろう?
外では子供達の笑い声やカラスの鳴き声が響き、すっかり昼も過ぎて日は高くのぼっている。この家には寒さに震える夜やおそろしい天敵はいない。いるのはただ仔猫をどう扱ったらいいのか分からず狼狽える男だけだ。どうしてか、出会ったいのちから目を離すことができずにいる。
人間に慣れていない仔猫と、動物に慣れていない人間。
奇しくも今日は誕生日だった。今日この子がうちに来たのは何かの縁なのかもしれない。
こんなに怯えているのに、負けん気が強いのか精一杯毛を逆立てて自分を守ろうと必死な姿がいじらしかった。可哀想なものを助けている自分に酔っている偽善なのかもしれないが、いつか自分に拾われて良かったと思ってもらいたい。よその家で首輪をつけられて可愛がられる姿はなんとなく想像したくないのだ。いのちの辿り着いた先としてこの家の前を選んでくれた、それが自分とこの子の運命だというのなら。
「……うちの子に、なりませんか?」
気がついたらそう黒猫に問いかけていた。
自分の気持ちは決まった。あとは。
じっと見つめ合ったままたっぷりと時間を置いたあと、黒猫は毛を逆立てたまま一度ピクリと震えた。
それから初めてニャァ、と小さな鳴き声を藍渙に聞かせたのだった。
あしあとふたつ
@1008findyouと@1105remindyouで掲載していたツイートと小説をまとめました。
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